角砂糖が溶けるように
6-9 正しい過ごし方
カランコロン……カラン……
いつもと変わらない音を鳴らして、芝原が大夢にやってきた。今までは奥のテーブル席で勉強することがほとんどだったが、最近はカウンター席に座ることが多い。チヨと三郎もほとんど毎日のようにそこにいて、芝原の話し相手をしていた。
「こんな年寄りよりも、麻奈美ちゃんが良いんだろうけどねぇ」
「い、いえ、そんなことないですよ」
芝原は慌てて否定したが、顔色は前と比べるとずいぶん悪かった。
麻奈美がひとりいないだけで、ほとんど別人だった。
「そういえば、平ちゃん、麻奈美ちゃんの風邪は治ったのかい?」
珍しくホットココアを飲みながら、三郎が聞いた。
平太郎はいつものように、カウンターの向こうでコーヒーを淹れていた。
「もう治ってますよ。確か、一週間くらいで……」
「長かったんだねぇ。麻奈美ちゃんはいつも元気だったのに」
「麻奈美が悪いんですよ、雨降ってるのに傘もささないで走ってるから」
溜息をつきながら、平太郎は芝原をちらっと見た。
麻奈美が風邪をひいたのはおまえのせいだ、と言っているように見えた。
「でも、元気になっても、ここには戻ってきてくれんのかのぉ」
「そうだねぇ、麻奈美ちゃんがいないと、寂しいねぇ」
「私でよければ、いつでもいますけどね」
平太郎がそう言うと、三郎が右手を顔の前で左右に振った。
「ダメダメ、若い子がいないと、活気がない」
「そうだよ。それにこの子も寂しそうだしねぇ」
麻奈美は風邪が治ってから、いつも通り学校に行った。
授業も真面目に受けて、友人たちとも楽しく過ごした。
けれど、芝原のことには一切触れず、大夢に顔を出すこともなかった。
そんな話は、芝原は平太郎から聞いていた。
「芝原、もうすぐ社会人なんだろう、真面目に生きろよ」
「……僕はいつでも真面目ですよ」
「そうか? じゃ、今日の正しい過ごし方も知ってるんだな?」
「今日の過ごし方……? ああ、クリス──」
今日がクリスマスだということを、芝原はすっかり忘れてしまっていた。自分のせいで麻奈美を泣かせて傷つけてしまったことばかりが気になっていた。一緒に過ごす彼女もいない分、余計に縁遠い存在だった。
「こんな年寄りだらけのところにいないで、若者らしく外に行きなさい」
「行きなさい、って、ちょっと、冷たくないですか?」
「そうだよ平ちゃん、いくらなんでも、この寒いときに──」
と言いかけて、チヨは笑顔になった。
なんとなく振り返った視線の先に、良いものを見つけた。
「そうだねぇ、平ちゃんの言う通りだねぇ、ほら、外に行っておいで」
今日の分はツケとくよ、と言う平太郎の声を最後に聞いて、芝原はチヨに店の外に押し出されてしまった。コートは持って出てきたので、店先で袖を通した。
店の前は細い路地なので、芝原はとりあえず大通りに出ることにした。
(でも、出ても何があるんだ……一人では寂しいだけだろうな)
そんなことを思いながら、芝原は歩き続けた。大夢から大通りに出る道は、他に誰もいない。
(それにしても寒いな……帰ろうかな……あれ──)
誰もいないと思っていたその道に、人影が見えた。
電柱に隠れて見えなかったのだろうか。芝原よりも小柄なその姿は──。
「麻奈美ちゃん……?」
「……ごめんなさい」
まともに話をするのは文化祭から三カ月ぶりだった。
「あの──」
「待って。謝るのは、僕のほうだ。いつも、曖昧な態度で、マスターにも叱られた。麻奈美ちゃんが風邪ひいたのも僕のせいだって……」
「それはもう良いんです。諦めました」
「僕は──」
「こないだの、グラスとカップ。ありがとうございました」
麻奈美が大夢で自分用に使っていたカップは、あの日、粉々に割れてしまった。芝原が見舞いに持ってきてくれたのは、同じキャラクターのグラスとカップのセットだった。
「嬉しかったんです。芝原さんには、何回もふられたけど、それでも気にしてくれてるんですよね」
「そりゃ、麻奈美ちゃんは、特別だから……」
芝原がそう言うと、麻奈美はにっこりと笑った。
それが可愛くてつい手を伸ばし、触れる手前で引っ込めた。
「ごめん、また……」
麻奈美を傷つけたことを、またやってしまいそうだった。
宙に浮いた手は行き場を無くし、そのままだらりと下げられた。
「良いですよ、引っ込めなくても」
「……え? でも」
「嫌ではないんです。私は、ただ……都合良く使われるのが嫌なだけです」
「都合……?」
「はい。たまたま近くにいるから、とか、ちょうどいい高さ、とか……誰でも良いようなことには、使われたくない。彼女がいたら、もっと嫌です」
麻奈美は俯き、視線を芝原から逸らした。それを見つめながら溜息をつき、芝原は小さく笑った。
「そういう扱いをしたことはないよ」
言いながら芝原は、自分がしていたマフラーを麻奈美にかけた。
「確かに、最初は、近くにいたからかも知れない。でも、僕も言ったと思うけどな、麻奈美ちゃんのことは好きだって」
「えっ、──い、いつですか?」
「文化祭のとき。やっぱり覚えてなかったか」
笑う芝原の顔が眩しくて、急に恥ずかしくなって、麻奈美は逃げだそうとした。けれど彼はマフラーの両端を掴んだままで、逃げることは出来なかった。
「だからって、彼女には出来ないんだけど──」
申し訳なさそうに芝原が言うと、麻奈美は首を横に振った。
「良いんです。それより、芝原さん、ケーキ食べますか?」
「──ケーキ?」
「これ、家で作ったんです……クリスマスプレゼントです」
麻奈美は持っていた紙袋を芝原に渡した。紙袋の中にケーキの箱が入っているのを見て、芝原は顔を緩めた。
「1カットしか入らなかったんですけど」
「ううん。ありがとう。食べるの勿体ないな」
「いえ、そんな、大したものじゃないです……普通の……」
「久しぶりに──いつもと違うコーヒーが飲みたいな」
いつもと変わらない音を鳴らして、芝原が大夢にやってきた。今までは奥のテーブル席で勉強することがほとんどだったが、最近はカウンター席に座ることが多い。チヨと三郎もほとんど毎日のようにそこにいて、芝原の話し相手をしていた。
「こんな年寄りよりも、麻奈美ちゃんが良いんだろうけどねぇ」
「い、いえ、そんなことないですよ」
芝原は慌てて否定したが、顔色は前と比べるとずいぶん悪かった。
麻奈美がひとりいないだけで、ほとんど別人だった。
「そういえば、平ちゃん、麻奈美ちゃんの風邪は治ったのかい?」
珍しくホットココアを飲みながら、三郎が聞いた。
平太郎はいつものように、カウンターの向こうでコーヒーを淹れていた。
「もう治ってますよ。確か、一週間くらいで……」
「長かったんだねぇ。麻奈美ちゃんはいつも元気だったのに」
「麻奈美が悪いんですよ、雨降ってるのに傘もささないで走ってるから」
溜息をつきながら、平太郎は芝原をちらっと見た。
麻奈美が風邪をひいたのはおまえのせいだ、と言っているように見えた。
「でも、元気になっても、ここには戻ってきてくれんのかのぉ」
「そうだねぇ、麻奈美ちゃんがいないと、寂しいねぇ」
「私でよければ、いつでもいますけどね」
平太郎がそう言うと、三郎が右手を顔の前で左右に振った。
「ダメダメ、若い子がいないと、活気がない」
「そうだよ。それにこの子も寂しそうだしねぇ」
麻奈美は風邪が治ってから、いつも通り学校に行った。
授業も真面目に受けて、友人たちとも楽しく過ごした。
けれど、芝原のことには一切触れず、大夢に顔を出すこともなかった。
そんな話は、芝原は平太郎から聞いていた。
「芝原、もうすぐ社会人なんだろう、真面目に生きろよ」
「……僕はいつでも真面目ですよ」
「そうか? じゃ、今日の正しい過ごし方も知ってるんだな?」
「今日の過ごし方……? ああ、クリス──」
今日がクリスマスだということを、芝原はすっかり忘れてしまっていた。自分のせいで麻奈美を泣かせて傷つけてしまったことばかりが気になっていた。一緒に過ごす彼女もいない分、余計に縁遠い存在だった。
「こんな年寄りだらけのところにいないで、若者らしく外に行きなさい」
「行きなさい、って、ちょっと、冷たくないですか?」
「そうだよ平ちゃん、いくらなんでも、この寒いときに──」
と言いかけて、チヨは笑顔になった。
なんとなく振り返った視線の先に、良いものを見つけた。
「そうだねぇ、平ちゃんの言う通りだねぇ、ほら、外に行っておいで」
今日の分はツケとくよ、と言う平太郎の声を最後に聞いて、芝原はチヨに店の外に押し出されてしまった。コートは持って出てきたので、店先で袖を通した。
店の前は細い路地なので、芝原はとりあえず大通りに出ることにした。
(でも、出ても何があるんだ……一人では寂しいだけだろうな)
そんなことを思いながら、芝原は歩き続けた。大夢から大通りに出る道は、他に誰もいない。
(それにしても寒いな……帰ろうかな……あれ──)
誰もいないと思っていたその道に、人影が見えた。
電柱に隠れて見えなかったのだろうか。芝原よりも小柄なその姿は──。
「麻奈美ちゃん……?」
「……ごめんなさい」
まともに話をするのは文化祭から三カ月ぶりだった。
「あの──」
「待って。謝るのは、僕のほうだ。いつも、曖昧な態度で、マスターにも叱られた。麻奈美ちゃんが風邪ひいたのも僕のせいだって……」
「それはもう良いんです。諦めました」
「僕は──」
「こないだの、グラスとカップ。ありがとうございました」
麻奈美が大夢で自分用に使っていたカップは、あの日、粉々に割れてしまった。芝原が見舞いに持ってきてくれたのは、同じキャラクターのグラスとカップのセットだった。
「嬉しかったんです。芝原さんには、何回もふられたけど、それでも気にしてくれてるんですよね」
「そりゃ、麻奈美ちゃんは、特別だから……」
芝原がそう言うと、麻奈美はにっこりと笑った。
それが可愛くてつい手を伸ばし、触れる手前で引っ込めた。
「ごめん、また……」
麻奈美を傷つけたことを、またやってしまいそうだった。
宙に浮いた手は行き場を無くし、そのままだらりと下げられた。
「良いですよ、引っ込めなくても」
「……え? でも」
「嫌ではないんです。私は、ただ……都合良く使われるのが嫌なだけです」
「都合……?」
「はい。たまたま近くにいるから、とか、ちょうどいい高さ、とか……誰でも良いようなことには、使われたくない。彼女がいたら、もっと嫌です」
麻奈美は俯き、視線を芝原から逸らした。それを見つめながら溜息をつき、芝原は小さく笑った。
「そういう扱いをしたことはないよ」
言いながら芝原は、自分がしていたマフラーを麻奈美にかけた。
「確かに、最初は、近くにいたからかも知れない。でも、僕も言ったと思うけどな、麻奈美ちゃんのことは好きだって」
「えっ、──い、いつですか?」
「文化祭のとき。やっぱり覚えてなかったか」
笑う芝原の顔が眩しくて、急に恥ずかしくなって、麻奈美は逃げだそうとした。けれど彼はマフラーの両端を掴んだままで、逃げることは出来なかった。
「だからって、彼女には出来ないんだけど──」
申し訳なさそうに芝原が言うと、麻奈美は首を横に振った。
「良いんです。それより、芝原さん、ケーキ食べますか?」
「──ケーキ?」
「これ、家で作ったんです……クリスマスプレゼントです」
麻奈美は持っていた紙袋を芝原に渡した。紙袋の中にケーキの箱が入っているのを見て、芝原は顔を緩めた。
「1カットしか入らなかったんですけど」
「ううん。ありがとう。食べるの勿体ないな」
「いえ、そんな、大したものじゃないです……普通の……」
「久しぶりに──いつもと違うコーヒーが飲みたいな」