角砂糖が溶けるように
7-6 進路希望
「ねぇ、麻奈美、高校卒業してからのことは考えてるの?」
学校で行われた模擬試験の結果を光恵に見せると、そういう質問が飛び出した。
高校三年生になり、麻奈美の成績は良いところで安定しているが、星城大学の合格ラインには僅かに届いていなかった。もちろん麻奈美は星城大学を受けるつもりは今のところないので、気まぐれで書いただけだ。
「あんまり……。大学って、行くべきなのかな」
「どうして? お母さんは行ったほうが良いとは思うけど」
「うーん……でも、勉強したいこともないし」
専門分野を学んだところでその仕事に就く人は少ない、と芝原は言っていた。
英語は好きではあるが、英語漬けの日々にはしたくない。
芝原や平太郎のように、教師の道に──進む気はしない。
「まぁ、麻奈美が行きたくないんなら、無理に行けとは言わないけど。お金もかかるし……何なら、卒業してすぐに結婚しても良いのよ?」
光恵は眼を輝かせていたが、残念ながら、麻奈美にそんな相手はいない。
「そんなの無理だよ、絶対。ねぇ、お母さんはどうだったの?」
「私は四年間大学に通って、そのときにお父さんと出会って、卒業してから結婚したの。それから麻奈美を産んで、落ち着いてから、パートを始めて……。就職、っていう選択肢もあるわね」
「就職かぁ。仕事なんか、出来るのかな」
「してるじゃない、今だって。コーヒー淹れるのだって上手だし」
光恵がそう言うと、麻奈美は、ハッと顔を上げた。
「専門学校にしようかな。お菓子とか、料理とか」
「それもいいわね」
「でも、先生には大学に行けって言われそう……せっかく星城に入ったんだから勿体ないとか、言う先生もいそうだなぁ」
「母さんは、麻奈美の決めたことには反対しないから」
「うん。おじいちゃんにも聞いてみよう」
麻奈美が大夢に到着すると、平太郎はいつものようにカウンターの奥でコーヒーを淹れていた。前の席にはチヨと三郎が座っていて──芝原は、まだ来ていない。
「麻奈美、今日は来ない日じゃなかったのか?」
「そうだけど、おじいちゃんに相談があって」
言いながら、麻奈美はカウンター席に座った。
平太郎が不思議そうな顔をして出してくれたおしぼりで手を拭きながら、麻奈美はミックスジュースを注文した。
「麻奈美ちゃんが平ちゃんに相談って、珍しいね」
コーヒーカップを置きながら三郎は笑った。
聞いていたチヨも、「ははは、本当だね」と平太郎のほうを見た。
「で、何の相談だ? 学校のことか?」
「学校っていうか──。ねぇ、おじいちゃん、おじいちゃんは、このお店、どうするの? もしも歩けなくなったりして営業できなくなったら、どうするの?」
麻奈美の質問に、平太郎は作業していた手を止めた。
「そうだな──畳むしか、ないな」
「え? それはないよ、平ちゃん」
「そうだよ、楽しみがなくなるじゃないか」
「はは、当分はそれはないな。まだ元気だからな」
「でも、おじいちゃん、最近は歩くのしんどそうだよ……」
「麻奈美は、ここを潰したいのか?」
「ち、違うよ! 私は……大夢は、ずっとここで営業続けてほしい。常連のお客さんもたくさんいるし、無くなったら寂しい」
大夢の手伝いをしなかったら、麻奈美は今のようにはなれなかった。
働くことは面倒で、辛いだけだと思ったかもしれない。
特に接客は難しくて、クレームの日々だと思ったかもしれない。
何より、淹れるコーヒーの味は常連客にも認められるようになり、平太郎ではなく麻奈美に淹れてほしい、という客も増えた。もちろん、そんなとき、平太郎は決まってつまらなさそうな顔をして、麻奈美の手元を見守っている。
「ねぇ、平ちゃん。ここがなくなるのは、みんな寂しいんだよ」
「そうだよ。好きで始めたのは、平ちゃんだぞ」
「だから、私は潰すとも何も言ってないですよ」
カランコロン……カラン……
「──いらっしゃい。空いてるよ、指定席」
平太郎はそう言ったが、客はそこには向かわなかった。
カウンターに麻奈美がいるのを見つけ、それからチヨと三郎を順に見た。三人が同じような暗い表情をしているので、「何があったんですか」と言いながら麻奈美の隣に座った。
「何でもない。気にすることはない」
平太郎はカウンターの向こうから、芝原にコーヒーを出した。
「先生は……ここがなくなったら、どうしますか」
「──え? ここが? そんな、それはないですよね」
芝原は平太郎に聞いた。
「さあな。私も、病院通いだからな」
「ほら、やっぱり、おじいちゃん!」
「本当に、ここ、なくなるんですか?」
もう一度芝原は、平太郎にきいた。平太郎はため息をついて、芝原のほうを見た。けれど二人とも何も言わず、沈黙だけが流れていった。平太郎が芝原に何かを訴え、芝原もそれを理解しているなど、他の誰が知る由もない。
「私、ここを継ぎたい」
麻奈美が沈黙を破ると、平太郎は眼を見開き、麻奈美から視線を逸らした。
「──無理だ」
「そりゃ、すぐには無理だよ。今だって、簡単なことしかしてないし、コーヒーしか淹れられない。家でだって、滅多に料理しないし……だから、高校を卒業したら、そんなことを勉強したい。それが、今日の相談。先生たちは、大学に行け、って言うかもしれないけど、私は専門学校に行きたい」
「それじゃ──明日の放課後、進路指導室に行くと良いよ。確かに、先生たちは反対するかもしれないけど、絶対ダメとは言わないから。進路指導の先生に僕から話して、良い学校を探してもらう。教師としては、その強い意志は守らないと。マスター、良いですよね」
「──先生には、逆らえないからな。良いように頼むよ」
学校で行われた模擬試験の結果を光恵に見せると、そういう質問が飛び出した。
高校三年生になり、麻奈美の成績は良いところで安定しているが、星城大学の合格ラインには僅かに届いていなかった。もちろん麻奈美は星城大学を受けるつもりは今のところないので、気まぐれで書いただけだ。
「あんまり……。大学って、行くべきなのかな」
「どうして? お母さんは行ったほうが良いとは思うけど」
「うーん……でも、勉強したいこともないし」
専門分野を学んだところでその仕事に就く人は少ない、と芝原は言っていた。
英語は好きではあるが、英語漬けの日々にはしたくない。
芝原や平太郎のように、教師の道に──進む気はしない。
「まぁ、麻奈美が行きたくないんなら、無理に行けとは言わないけど。お金もかかるし……何なら、卒業してすぐに結婚しても良いのよ?」
光恵は眼を輝かせていたが、残念ながら、麻奈美にそんな相手はいない。
「そんなの無理だよ、絶対。ねぇ、お母さんはどうだったの?」
「私は四年間大学に通って、そのときにお父さんと出会って、卒業してから結婚したの。それから麻奈美を産んで、落ち着いてから、パートを始めて……。就職、っていう選択肢もあるわね」
「就職かぁ。仕事なんか、出来るのかな」
「してるじゃない、今だって。コーヒー淹れるのだって上手だし」
光恵がそう言うと、麻奈美は、ハッと顔を上げた。
「専門学校にしようかな。お菓子とか、料理とか」
「それもいいわね」
「でも、先生には大学に行けって言われそう……せっかく星城に入ったんだから勿体ないとか、言う先生もいそうだなぁ」
「母さんは、麻奈美の決めたことには反対しないから」
「うん。おじいちゃんにも聞いてみよう」
麻奈美が大夢に到着すると、平太郎はいつものようにカウンターの奥でコーヒーを淹れていた。前の席にはチヨと三郎が座っていて──芝原は、まだ来ていない。
「麻奈美、今日は来ない日じゃなかったのか?」
「そうだけど、おじいちゃんに相談があって」
言いながら、麻奈美はカウンター席に座った。
平太郎が不思議そうな顔をして出してくれたおしぼりで手を拭きながら、麻奈美はミックスジュースを注文した。
「麻奈美ちゃんが平ちゃんに相談って、珍しいね」
コーヒーカップを置きながら三郎は笑った。
聞いていたチヨも、「ははは、本当だね」と平太郎のほうを見た。
「で、何の相談だ? 学校のことか?」
「学校っていうか──。ねぇ、おじいちゃん、おじいちゃんは、このお店、どうするの? もしも歩けなくなったりして営業できなくなったら、どうするの?」
麻奈美の質問に、平太郎は作業していた手を止めた。
「そうだな──畳むしか、ないな」
「え? それはないよ、平ちゃん」
「そうだよ、楽しみがなくなるじゃないか」
「はは、当分はそれはないな。まだ元気だからな」
「でも、おじいちゃん、最近は歩くのしんどそうだよ……」
「麻奈美は、ここを潰したいのか?」
「ち、違うよ! 私は……大夢は、ずっとここで営業続けてほしい。常連のお客さんもたくさんいるし、無くなったら寂しい」
大夢の手伝いをしなかったら、麻奈美は今のようにはなれなかった。
働くことは面倒で、辛いだけだと思ったかもしれない。
特に接客は難しくて、クレームの日々だと思ったかもしれない。
何より、淹れるコーヒーの味は常連客にも認められるようになり、平太郎ではなく麻奈美に淹れてほしい、という客も増えた。もちろん、そんなとき、平太郎は決まってつまらなさそうな顔をして、麻奈美の手元を見守っている。
「ねぇ、平ちゃん。ここがなくなるのは、みんな寂しいんだよ」
「そうだよ。好きで始めたのは、平ちゃんだぞ」
「だから、私は潰すとも何も言ってないですよ」
カランコロン……カラン……
「──いらっしゃい。空いてるよ、指定席」
平太郎はそう言ったが、客はそこには向かわなかった。
カウンターに麻奈美がいるのを見つけ、それからチヨと三郎を順に見た。三人が同じような暗い表情をしているので、「何があったんですか」と言いながら麻奈美の隣に座った。
「何でもない。気にすることはない」
平太郎はカウンターの向こうから、芝原にコーヒーを出した。
「先生は……ここがなくなったら、どうしますか」
「──え? ここが? そんな、それはないですよね」
芝原は平太郎に聞いた。
「さあな。私も、病院通いだからな」
「ほら、やっぱり、おじいちゃん!」
「本当に、ここ、なくなるんですか?」
もう一度芝原は、平太郎にきいた。平太郎はため息をついて、芝原のほうを見た。けれど二人とも何も言わず、沈黙だけが流れていった。平太郎が芝原に何かを訴え、芝原もそれを理解しているなど、他の誰が知る由もない。
「私、ここを継ぎたい」
麻奈美が沈黙を破ると、平太郎は眼を見開き、麻奈美から視線を逸らした。
「──無理だ」
「そりゃ、すぐには無理だよ。今だって、簡単なことしかしてないし、コーヒーしか淹れられない。家でだって、滅多に料理しないし……だから、高校を卒業したら、そんなことを勉強したい。それが、今日の相談。先生たちは、大学に行け、って言うかもしれないけど、私は専門学校に行きたい」
「それじゃ──明日の放課後、進路指導室に行くと良いよ。確かに、先生たちは反対するかもしれないけど、絶対ダメとは言わないから。進路指導の先生に僕から話して、良い学校を探してもらう。教師としては、その強い意志は守らないと。マスター、良いですよね」
「──先生には、逆らえないからな。良いように頼むよ」