角砂糖が溶けるように

7-8 大切な存在

「麻奈美ちゃん──会いたくないんでしょ?」
 教室から離れてから、千秋は聞いた。
「……ごめん。ありがとう」
「ううん、気にしないで。私も、麻奈美ちゃんの立場だったら、同じだと思う」
「私──もう、わからないよ」
 本当に芝原が好きなのか、わからない。
 芝原の考えていることが、わからない。
 このまま想い続けて良いのか──わからない。
「顔も見たくないよ……」
 見ていると、余計好きになってしまう。
 今までの彼の行動を、疑ってしまう。
「でも……嫌いにはなれない……」
 前に信じられなくなって距離を置いた時、本当はものすごく辛かった。思い出すと会いたくなるから、勉強のことしか考えなかった。
「大人って、何か違うのかな。やっぱり、子供なのかな……」
「麻奈美ちゃん──一時間くらい寝た方が良いよ。ノートは取っといてあげるから」
「うん……ごめんね」
 麻奈美がベッドに横になったのを確認してから、千秋は教室に戻った。

 教室では芝原が世界史の授業をしていたが、なんとなくいつもと様子が違っていた。
 普段なら説明も丁寧で元気に授業をしているのに、今日はそれが弱い気がした。
(もしかして、麻奈美ちゃんがいないから? でも、先生は麻奈美ちゃんは……生徒でしかないって……違う、のかな)
 板書をするのもいつもより遅いし、字も小さい。
「先生、もう少し大きく書いてもらえませんか」
「ああ──ごめん、小さかった?」
 最後列に座っていたクラスメイトが声をあげた。
 芝原は苦笑し、やがていつもの調子になった。
 チャイムが鳴って授業が終わり、席を立った千秋を芝原が呼んだ。
「松田さん、ちょっといいか?」
 教室や廊下で出来る話ではなかったのか、芝原は千秋を相談室に呼んだ。職員室の奥にある部屋ではなく、各階にいくつか設置されている。
「今日の先生、なんか、元気ないですよね」
「ああ、悪い……そんなつもりはないんだけど」
「それは──麻奈美ちゃんが関係してるんですか」
 千秋の言葉が相談室に響いた。
 外の廊下や隣の教室には響かないように設計されているし、千秋も特に叫んだわけではない。
「麻奈美ちゃんは、先生の顔を見たくないって言ってました」
 芝原は椅子には座らず、ずっと窓の外を見ていた。
「でも──嫌いにはなれない、って。ずっと悩んでるんです……前は先生の話をするときはすごい楽しそうだったのに、今は、辛そうで……」
「前って、いつ?」
「入学してからずっとです。あの頃からずっと、麻奈美ちゃんは『気になる人がいる』って言ってました。それが先生だって聞かされたのは、去年の実習の時でした」
「そんなに前から、言ってたのか」
「でも、先生は」
 千秋は立ち上がり、芝原のほうを向いた。
「それよりもっと前から、好きな人がいるんですよね」
「ああ──もう、五年くらい前かな」
「だったら! その気がないんなら、麻奈美ちゃんにちゃんと言ってあげてください……かわいそうだけど、今のままより絶対マシです。先生のことずっと知ってるのに、他の子と同じ扱いされてるし……もう、あんな苦しんでるの、見たくないです……」
「あの子には──麻奈美ちゃんには、嘘をついたことはないよ。学生の時も、教師になってからも」
 芝原は初めて、千秋のほうをふりかえった。
 怒っているのだろうか、千秋は小さく震えながら涙をためていた。
「僕が何をして、何て言ったか……どれくらい聞いてる?」
「ほとんど、全部です」
 麻奈美が芝原に出会ってからのこと。
 傘のお礼をケーキで返し、いつも麻奈美のそばにいるようになり、何度も触れて抱きしめ、仲直りに好きだと言ったこと。麻奈美はいつも、芝原とのことは千秋に相談していた。
「先生にとって、麻奈美ちゃんは何なんですか」
「──大切な存在だよ。もちろん、生徒は全員、大事だけどね」
 その答えが当たり前すぎて、千秋は思わず歯を食いしばった。握りこぶしも出来あがり、殴りかかる準備は万端だった。
「教師としては、生徒の誰ひとり注意をそらしてはいけない。昔、僕の担任だった先生が──麻奈美ちゃんのお祖父さんが、僕にしてくれたように──生徒はみんな大事だよ。だけど僕は、教師である前に、大夢の客だった」
 そこまで言ってから、芝原はいったん言葉を切った。
 千秋の様子を見てから、再び口を開いた。
「この意味、わかる?」
「──わかりません」
「僕が悪いことしてるように思うかもしれないけど、その手は力を抜いたほうがいいと思うよ。僕を殴ったところで痛いだけだし、まぁ、そうなる前に止めるけど──」
 芝原が昔、学園で暴れていたことを思い出し、勝てる相手ではないと判断して千秋は拳を元に戻した。もちろん、今はそんなことはしていないし、大人の男相手に普通の女子高校生が勝てるわけもない。
 校舎内にチャイムが響き、芝原は「そろそろ戻りなさい」と言った。
「はい──先生、最後に、真面目に答えてください」
「……いつも真面目に答えてるよ」
「麻奈美ちゃんを──ひとりの女の子として見たこと、ありますか?」
「──あるよ。何回も」
 はっきりとした声が、相談室に響いた。
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