角砂糖が溶けるように
第8章

8-1 目下最大のライバル

 模擬試験での麻奈美の成績は良いところで一定に保たれるようになり、苦手だった数学でさえ、全国平均を上回るようになった。麻奈美が志望する専門学校の受験に数学は必要ないが、他の大学の判定を見たいので全教科受験していた。
 もちろん、芝原が担当している世界史は、家庭教師の浅岡に数学を教えてもらった以上に成績が伸びた。芝原との関係は何も変わっていない。けれど、何度も夢に見たこと──芝原を恋人と呼ぶ日が来ることがわかってから、麻奈美は今まで以上に活発になった。長く休んでいた大夢の手伝いも再開し、専門学校卒業後のことを考える日も多くなった。
「本当に継げるのか? まだ無理じゃないのか?」
「卒業してからの話だよ。まだ何年も先だって」
「麻奈美ちゃんが継いでくれたら、平ちゃんは引退だねぇ」
 チヨが笑いながらコーヒーを飲むと、ドアに付けられた鐘がカランコロン、と鳴った。そしてその音のほうを見なくても笑顔になってしまうのは、もう麻奈美だけではない。
「お、お母さん、なに笑ってるの」
「だって、なんだか嬉しくって」
「ま、まだ何もないんだから、変なこと言わないでよ?」
「はいはい」
 芝原の指定席は、奥のテーブル席からカウンターに変わっていた。
 麻奈美が客の帰ったテーブルを片づけている間に、平太郎はコーヒーを淹れる用意をしようとしてその手を止めた。
 振り返って見たのは、目下最大のライバル。
「──どっちにするんだ?」
 突然のことに芝原は何も言えず、出されたおしぼりを握りしめたまま固まってしまった。隣に座っていた光恵が「ふふふ」と笑い、三郎は「邪魔者は帰るかな」とチヨを誘って立ちあがった。
「平ちゃん、いくらだったかな。いつもと違うものを頼んだから、値段を忘れたよ」
 三郎とチヨはカウンターから離れ、平太郎をレジまで呼んだ。
 もちろん、芝原のために、だ。
「先生、いつもので良いんですよね」
 テーブルの片づけを終えて、麻奈美はカウンターに戻っていた。
 食器棚からカップを出す麻奈美を、芝原は無意識に見つめた。平太郎が聞いた「どっち」とは、コーヒーを淹れるのは平太郎と麻奈美のどっちが良いんだ、だ。
「ああ──うん。いつもので……」
「久しぶりね、芝原さん。いつ振りかしら?」
「ええと、確か……」
「私が風邪ひいたときだよ。お見舞い来てくれて……これ、このカップ」
 麻奈美は食器棚から、芝原にもらったキャラクターのカップを取り出した。手伝いを再開したときに持ってきて、手伝いに来た日は毎日使っている。
「先生──私も、このゾウみたいに飛べますか?」
 麻奈美の質問の意味がわからず、光恵はぱちぱちと瞬きをした。
 平太郎が入院していたとき、麻奈美と芝原はこのキャラクターの話をした。他人と違っていることのせいで苛められたけれど、最後は人気者になる話。
「先生は、ちゃんと、飛べましたよね。私も──」
「飛べるよ。僕も、出来る限り力を貸すから」
「それは、教師としてだろうな?」
 チヨと三郎を見送った平太郎が芝原の隣に立っていた。
 声色から想像したとおり、怖い顔をしていた。
「お義父さん、そんなこと言うと嫌われるわよ」
「い、いえ、僕は……」
 平太郎は芝原と麻奈美を交互に見て、芝原は光恵に言った。
 芝原に淹れたコーヒーが出来あがったようで、麻奈美はそれを彼に運んだ。
「どうなんだ?」
「えっ、ど、どう、って──」
「味はどうだと聞いてるんだ」
「味……ですか……。まだ熱くて」
「ちょっと休憩してるよ。何かあったら呼んでくれ」
 平太郎は麻奈美にそう言って、奥の部屋へ入っていった。バタンという音がしてドアが閉まり、足音は遠くのほうへ消えていった。
「あれは絶対にヤキモチね」
「麻奈美ちゃんが可愛がられてる証拠だよ」
 芝原に言われて思わず照れてしまった。照れ隠しに笑いながら、麻奈美は汚れた食器を洗った。手はちゃんと洗いものをしているが、なんとなく集中できない。
 一息ついてから、芝原はコーヒーを飲んだ。
 そしてひとり、味に納得して頷いていると、光恵が立ちあがった。
「麻奈美、お母さん、帰るから。晩ご飯までには帰りなさいね」
「あ、はーい……」
 洗い物をしていた手を止めて、麻奈美は着けていたエプロンで手を拭いてレジを打った。光恵が帰り際に「仲良くしてなさい」と言うのを聞いて、また照れてしまった。
「麻奈美ちゃん──ひとつ、聞きたいんだけど」
「はい、なんですか?」
「学校で、何も変わったことはない?」
「変わったこと? なんですか? 何もないですけど」
「ふうん。なかったら良いんだ」
「なんですか? 何かあったんですか?」
「いや……。僕とのことが広まって苛められてないかな、って思って」
 芝原は今や学校中の女子生徒に人気があって、噂話をしているのを聞かない日はなかった。麻奈美に限って仲良くしているのが知られると、麻奈美が攻撃されるのは容易に想像できた。
「大丈夫です。修二のおかげで……嬉しくはないですけどね……」
 芝原とのことはすでに友人たちにも話していた。麻奈美が苛められる可能性を考えた修二は、その日からストーカーのように麻奈美に付きまとった。もちろんそれは、麻奈美を守るためだ。
「片平君か……なんか、複雑だな」
 芝原はもう、麻奈美には何も隠していない。
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