角砂糖が溶けるように

8-6 待っていた人

「ま、まさか……知り合いでしょ」
 そんなわけがない。
 麻奈美を彼女にすると言っておいて、浮気するとは思えない。
「でも、本当に楽しそうだった、って言ってたぞ」
「勘違いだよ。絶対。そうだ、浅岡先生……先生だよ、きっと。同級生だし、仲良いし、一緒にいてもおかしくないよ」
 友人たちに言いながら、麻奈美は自分にも言い聞かせた。
 高校の頃から気にしておいて、今さらそんなはずはない。
 芝原は必ず迎えに来てくれる──。
 芝原が女の人と楽しそうに街を歩いていた、修二が持ってきたその噂が気になって、麻奈美はまた本当の笑顔を作れなくなった。
 もちろん、芝原が言っていたことを信じないわけではない。
 浅岡と仲良くしているのも、麻奈美を通じて再会したからだ。
 ほかの同級生とは連絡が取れないと、聞いたこともある。
(そうだよ……浅岡先生だよ。仕事の相談してたんだよ)
「ねぇ、その制服……星城?」
 その声にハッとした。
 今日は専門学校の体験入学があって、麻奈美は校舎に入ろうとしているところだった。友人たちはもちろん学校で、両親も仕事だったので家からずっと一人でやって来た。
 麻奈美に声をかけたのは、違う学校の高校生だった。
「うん──」
「やっぱり、良いなぁ。私も着たかったんだけどなぁ」
「そうなんだ……」
 その高校生・佐崎香織(ささきかおり)と話している間は、芝原のことを忘れることが出来た。
 一緒に講義を受けて食事も一緒にとり、高校のこと、この学校の志望理由、いろんなことを話した。
 大学に行くかは別にしてセンター試験も受けるよね、とか。
 書類と面接だけ、って簡単そうで怖いね、とか。
 早く大人になって自分のお店を持ちたいね、とか。
「私、大学にしようかここにしようか迷ってたけど、来て良かった」
「本当だね。また会えると良いね」
「うん!」
 出会ったときと同じ場所で、麻奈美と香織は別れた。
 来たときとは全然違う気持ちで、麻奈美は歩き出した。

「え──、先生? 何してるんですか?」
 専門学校の最寄り駅に、よく知った姿があった。
「何って、仕事だよ」
「仕事? でも、確か今日は午後から休みって聞いたような」
 彼──芝原は、もたれていた壁から身体を起こした。麻奈美は友人たちから「文化祭の日は芝原は午後から休み」と聞いていたが、芝原は今、スーツを着ている。
「僕みたいな新米が、半休なんて取れないよ……」
 友人たちが言っていたのはただの噂だった。
 麻奈美は今まで、文化祭の日に休んだ教師を見たことがなかったし、芝原が本当に何かの理由で休みをとっていたとしても、スーツではないだろう。
「でも、先生、こんなところで、何の仕事なんですか?」
「──迎えに来たんだよ、麻奈美ちゃんを」
「え? 私を……?」
「詳しくはあとで話すから。行こう、向こうに車を停めてある」
 麻奈美はいまいち状況が理解できず、その場から動けなかった。
「麻奈美ちゃん、しばらくの間、お店に来なかったけど……また僕のこと、嫌いになった?」
「う、ううん、それはない、です。私は……」
 芝原を好きな気持ちはずっと変わらない。
 彼が迎えに来てくれたのは、本当はすごく嬉しい。
 嬉しいけれど、何がどうなっているのかわからなくて、動けない。
「早くしないと、誰かに見られるよ」
 芝原は言いながら、麻奈美の手を引いて歩きだした──。
「せっ、先生?」
「教師と生徒じゃなかったら、このままデートでも良いんだけどな」
 楽しそうに言う芝原に、麻奈美は驚いて彼を見上げた。芝原はずっと笑顔のままで、近くに停めてある車を目指しながら──麻奈美の手を握る力を少しだけ強めた気がした。
 この人が浮気なんかするはずがない。本当にそう思った。
 車に乗って少ししてから、麻奈美を迎えに来ることは平太郎に頼まれた、と芝原は言った。
「え? おじいちゃん?」
「そうなんだよ。麻奈美ちゃんが今日のことを聞く前だと思うけど、お店でね。たぶん、マスターは、他の先生から聞いてたんだろうな」
 相変わらず、平太郎には現役の先生たちからの相談が多いらしい。それは毎日のように大夢に通っている芝原も、例外ではないらしい。
「もちろん、そのあと、麻奈美ちゃんの担任からも頼まれたよ。先生は──知ってると思うな、僕と麻奈美ちゃんのこと」
「知ってるって、何を──えっ、もしかして」
「だから、担任でも進路指導でもない僕を出したんだと思うよ。星城の先生たちはこういうことに厳しいっていう噂は、嘘かも知れないな」
 芝原はハンドルを握りながら苦笑いをした。
 他の先生と同じように、生徒と恋愛する気はない。着任してすぐの頃に芝原は女子生徒にそう言った。麻奈美もそれを聞いていた。家庭教師の浅岡にも、星城の先生には惹かれないようにと言われていた。けれど、浅岡は「あると思う」と言っていたし、実際、麻奈美と芝原は──引き裂かれるどころか、むしろ全面協力されている。
「先生。ありがとうございます」
「ん? 僕は何もしてないよ」
「今日のこと──早く誰かに話したかったんです。私のことを、よく知ってる人と……専門学校を出てからのことも含めて……だから、先生が来てくれて嬉しかった。先生がお店に通ってくれてて、良かった」
 芝原が大夢に通っていなかったら。
 学校で大暴れしていなかったら。
 麻奈美が同じ専門学校への道を進んでいたとしても、芝原ほどの良い相談相手には出会えていなかっただろう。
「専門学校を出てから? 就職? 確か、お店を継ぎたいって言ってたけど」
「はい。そのことで、先生の意見を聞きたいんです──お店のお客さんとしての」
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