角砂糖が溶けるように
8-8 面接の対策
十月半ばのある朝。
いつものようにホームルームを済ませた後、担任は麻奈美を相談室に呼んだ。すぐに終わる話なのだろうか、担任は座らずに本題に入った。
「今日の昼休み、予定はあるか?」
「昼休みですか? 特にないですけど」
「そうか──それなら、弁当を食べてから──そうだな、十二時半に進路指導室へ行きなさい。面接の対策をする」
「……え? 面接って、何を聞かれるかわかったんですか?」
「いや。うちには前例がないからな。そんな難しい顔をするな」
担任は笑いながら、相談室のドアを開けた。
廊下に出ようとしたところで、何かを思い出して振り返った。
「そうだ、対策をするのは俺じゃなくて進路の先生だからな。こないだ、あいつに迎えに行かせて正解だったよ」
いつの話をしているのだろう、と麻奈美が考えている間に、担任はすでにいなくなっていた。少ししてから、専門学校の体験入学の帰りのことだと思い当たった。
※
「今日のこと、早く誰かに話したかったんです。専門学校を出てからのことも含めて」
「専門学校を出てから? 就職? 確か、お店を継ぎたいって言ってたけど」
「はい。そのことで、先生の意見を聞きたいんです──お店のお客さんとしての」
車を運転する芝原の隣で、麻奈美は真剣な顔をしていた。
芝原はそのまま車を走らせ、麻奈美の話を聞いた。
「おじいちゃんはまだまだ元気って言ってるけど、身体は確実に弱くなってるんです。ときどき病院に行ってるし、二年前には入院してるし……でも、お店はそのまま終わって欲しくないんです」
「うん。僕も、無くなって欲しくないよ」
芝原以外にも、大夢の常連客はたくさんいる。
チヨや三郎はもちろん、光恵もひと月に何回かは平太郎の様子を見に来ているし、芝原のように、毎日来ている客もいる。
大夢の仕事に苦労がないとは言い切れないが、客たちが笑顔で帰っていくのを麻奈美はいつも楽しみにしていた。
「だから、卒業したら、お店を継ぎたいんです。それで生活していけるかは別にして……おじいちゃんが作ったものを壊したくない」
「麻奈美ちゃんなら出来るよ。それだけ強い気持ちがあれば」
「──でも、その時のお客さんは、今とは変わってますよね」
麻奈美が何を言おうとしているのかわからず、芝原は一瞬、麻奈美のほうを見た。
「変わってるって、何が?」
「お客さんの……年齢層です」
「ああ、確かに。二年後、三年後……若い人が増えてるのかな」
「増えて──欲しいんです。でも、今のままじゃ増えないです」
今の大夢の常連客に若い人がいないわけではない。
近くの会社で働く人たちや、近所の新米ママたちが子供を連れて集まることもある。
「味はみんな、美味しいって言ってくれてるけど、メニューが少ないですよね」
「うーん……僕は満足してるけど、って、コーヒーだけの時がほとんどだけどね」
「ははは。そうですね。そんなお客さん、他にもいるんです」
「だって、美味しいから」
「ありがとうございます。でも……私は……メニューを増やそうと思ってます。特に、デザート。今あるメニューも、そのまま残して」
麻奈美が笑顔でそう言ったとき、ちょうど車は信号で停止した。
ブレーキをしっかり踏んでから、芝原は口を開いた。
「それって、麻奈美ちゃん──今のマスターより大変な仕事になるよ。とてもじゃないけど、一人では……大丈夫?」
「やってみないと、わからないです。私に何が出来るかもわかってないし。出来ない可能性も……」
「お昼時とか、おやつ時とか、お客さんが増えてれば絶対しんどいよ」
「それでも──私はやってみたい。今の大夢も残しつつ、新しいものも」
麻奈美の表情から迷いは一切感じられなかった。
信号が青になったのを見て、芝原は再びアクセルを踏んだ。
※
「詳しい話は聞いてないけど、川瀬は本当に、本気なんだな?」
昼休みの進路指導室で、麻奈美は自分の想いを確かめられていた。
あの日、芝原は心配しながらも、麻奈美の考えを否定はしなかった。
「はい。都会ではどんなものが流行ってるのかとか、どういう盛り付けが良いのかとか、いろんなことを勉強したいんです。今の雰囲気を崩さないで、でも、若い人たちにも来てもらえるような……そんなお店に」
「お祖父さんには、話したのか?」
「──具体的には、まだです。継ぎたいって言った時から、ずっと『無理だ』って言われてて」
平太郎にはいつ話しても、返ってくる答えは同じだった。
自分が築き上げたものを人に譲りたくない、たとえそれが麻奈美でも、と顔に書いていた。その割に、麻奈美がレシピを見て作ってみたり、新作を手伝ってみたりする分には嬉しそうな顔をしているのだけれど。
「先生は──お祖父さんは、本当に頑固だからな」
進路指導の先生は、ははは、と笑った。
「それだと、大変だったんじゃないのか? ああ、川瀬は特にないのか──むしろ、あいつのほうだな」
「あいつ、って……何の話ですか」
麻奈美が真顔で尋ねると、先生はにやりと口角を上げた。
「うちの新米歴史教師……あれは私が担任した時はどうしようもない奴だったが──川瀬のおかげなんだってな。こないだも嬉しそうに帰って来たし、川瀬の話をするときはいつもそうだな。お祖父さんが目くじら立ててるのが想像つくよ」
はっはっは、と笑いながら資料を片づける先生の前で、麻奈美はただうつむき、照れていた。
けれど麻奈美と芝原の関係は、まだ生徒と教師から何の変化もない。
本当に恋人になったとき、周りは何を言うだろうか。
いつものようにホームルームを済ませた後、担任は麻奈美を相談室に呼んだ。すぐに終わる話なのだろうか、担任は座らずに本題に入った。
「今日の昼休み、予定はあるか?」
「昼休みですか? 特にないですけど」
「そうか──それなら、弁当を食べてから──そうだな、十二時半に進路指導室へ行きなさい。面接の対策をする」
「……え? 面接って、何を聞かれるかわかったんですか?」
「いや。うちには前例がないからな。そんな難しい顔をするな」
担任は笑いながら、相談室のドアを開けた。
廊下に出ようとしたところで、何かを思い出して振り返った。
「そうだ、対策をするのは俺じゃなくて進路の先生だからな。こないだ、あいつに迎えに行かせて正解だったよ」
いつの話をしているのだろう、と麻奈美が考えている間に、担任はすでにいなくなっていた。少ししてから、専門学校の体験入学の帰りのことだと思い当たった。
※
「今日のこと、早く誰かに話したかったんです。専門学校を出てからのことも含めて」
「専門学校を出てから? 就職? 確か、お店を継ぎたいって言ってたけど」
「はい。そのことで、先生の意見を聞きたいんです──お店のお客さんとしての」
車を運転する芝原の隣で、麻奈美は真剣な顔をしていた。
芝原はそのまま車を走らせ、麻奈美の話を聞いた。
「おじいちゃんはまだまだ元気って言ってるけど、身体は確実に弱くなってるんです。ときどき病院に行ってるし、二年前には入院してるし……でも、お店はそのまま終わって欲しくないんです」
「うん。僕も、無くなって欲しくないよ」
芝原以外にも、大夢の常連客はたくさんいる。
チヨや三郎はもちろん、光恵もひと月に何回かは平太郎の様子を見に来ているし、芝原のように、毎日来ている客もいる。
大夢の仕事に苦労がないとは言い切れないが、客たちが笑顔で帰っていくのを麻奈美はいつも楽しみにしていた。
「だから、卒業したら、お店を継ぎたいんです。それで生活していけるかは別にして……おじいちゃんが作ったものを壊したくない」
「麻奈美ちゃんなら出来るよ。それだけ強い気持ちがあれば」
「──でも、その時のお客さんは、今とは変わってますよね」
麻奈美が何を言おうとしているのかわからず、芝原は一瞬、麻奈美のほうを見た。
「変わってるって、何が?」
「お客さんの……年齢層です」
「ああ、確かに。二年後、三年後……若い人が増えてるのかな」
「増えて──欲しいんです。でも、今のままじゃ増えないです」
今の大夢の常連客に若い人がいないわけではない。
近くの会社で働く人たちや、近所の新米ママたちが子供を連れて集まることもある。
「味はみんな、美味しいって言ってくれてるけど、メニューが少ないですよね」
「うーん……僕は満足してるけど、って、コーヒーだけの時がほとんどだけどね」
「ははは。そうですね。そんなお客さん、他にもいるんです」
「だって、美味しいから」
「ありがとうございます。でも……私は……メニューを増やそうと思ってます。特に、デザート。今あるメニューも、そのまま残して」
麻奈美が笑顔でそう言ったとき、ちょうど車は信号で停止した。
ブレーキをしっかり踏んでから、芝原は口を開いた。
「それって、麻奈美ちゃん──今のマスターより大変な仕事になるよ。とてもじゃないけど、一人では……大丈夫?」
「やってみないと、わからないです。私に何が出来るかもわかってないし。出来ない可能性も……」
「お昼時とか、おやつ時とか、お客さんが増えてれば絶対しんどいよ」
「それでも──私はやってみたい。今の大夢も残しつつ、新しいものも」
麻奈美の表情から迷いは一切感じられなかった。
信号が青になったのを見て、芝原は再びアクセルを踏んだ。
※
「詳しい話は聞いてないけど、川瀬は本当に、本気なんだな?」
昼休みの進路指導室で、麻奈美は自分の想いを確かめられていた。
あの日、芝原は心配しながらも、麻奈美の考えを否定はしなかった。
「はい。都会ではどんなものが流行ってるのかとか、どういう盛り付けが良いのかとか、いろんなことを勉強したいんです。今の雰囲気を崩さないで、でも、若い人たちにも来てもらえるような……そんなお店に」
「お祖父さんには、話したのか?」
「──具体的には、まだです。継ぎたいって言った時から、ずっと『無理だ』って言われてて」
平太郎にはいつ話しても、返ってくる答えは同じだった。
自分が築き上げたものを人に譲りたくない、たとえそれが麻奈美でも、と顔に書いていた。その割に、麻奈美がレシピを見て作ってみたり、新作を手伝ってみたりする分には嬉しそうな顔をしているのだけれど。
「先生は──お祖父さんは、本当に頑固だからな」
進路指導の先生は、ははは、と笑った。
「それだと、大変だったんじゃないのか? ああ、川瀬は特にないのか──むしろ、あいつのほうだな」
「あいつ、って……何の話ですか」
麻奈美が真顔で尋ねると、先生はにやりと口角を上げた。
「うちの新米歴史教師……あれは私が担任した時はどうしようもない奴だったが──川瀬のおかげなんだってな。こないだも嬉しそうに帰って来たし、川瀬の話をするときはいつもそうだな。お祖父さんが目くじら立ててるのが想像つくよ」
はっはっは、と笑いながら資料を片づける先生の前で、麻奈美はただうつむき、照れていた。
けれど麻奈美と芝原の関係は、まだ生徒と教師から何の変化もない。
本当に恋人になったとき、周りは何を言うだろうか。