角砂糖が溶けるように

8-9 大統領みたい

 世の中の高校三年生は受験モードの真っ最中──のはずが。
 平太郎も、麻奈美に家で勉強するように厳しい顔をしているはずが。
 十二月下旬のクリスマスと重なった週末、麻奈美は早朝から大夢に缶詰にされていた。昨年に平太郎が試しに作った季節限定メニューが好評だったようで、再登場を願った客たちからの予約が数ヶ月前からいっぱいだった。席はそれほど多くないので、夕方を希望していた人たちにも朝の来店をお願いした。
「麻奈美ちゃんも大変だねぇ。家で勉強したいだろうに」
 まだ客の少ない開店直後、チヨと三郎はいつものようにカウンターで平太郎と麻奈美を見守っていた。調理に忙しい二人を思い、まだ何も注文していない。
「はい……勉強したこと、忘れそう」
「明日またやれば良いじゃないか。そこの卵、三つ割ってくれ」
「はーい……」
 麻奈美はボウルに卵を割り入れ、受け取った平太郎はそれを混ぜ始めた。砂糖を加えて、さらに泡立てる──。
「麻奈美ちゃん、平ちゃんは何を作ってるんだい?」
 平太郎の手元を見ながらチヨが聞いた。
「あれじゃないか? ほれ、何て言ったか……アメリカの大統領みたいな」
 三郎がそう言うと、麻奈美は、ははは、と笑った。
「確かに似てますよね」
「麻奈美、薄力粉をとってくれ。それから、さぶちゃん、Buche de Noelだ」
「おお、それそれ。ブッシュ“だ”ノエル!」
「ブッシュ、ド、だよ、まったく年寄りは……」
 三郎の発言にチヨはため息をつき、麻奈美は再び笑った。
「確かそれ、コーヒーの味だったねぇ」
「そうそう。去年、チョコだと思い込んで食べてビックリしたな。平ちゃん自慢のコーヒーだけあって、確かみんな絶賛してたよな」
 三郎がそう言うと、平太郎は嬉しそうな顔をした。
 平太郎が考えたこのケーキは、スポンジにもクリームにも、コーヒーの味をつけてある。麻奈美は去年、芝原との関係で店に顔を出さない日が続いていたが、ようやく戻った店内で最後の切れ端を食べさせてもらった。コーヒーが飲めない麻奈美でも、香り程度に入れてある洋酒にも、全く抵抗がなかった。
「でもやっぱり、麻奈美ちゃんは今日は家にいちゃダメだよ」
「え? どうしてですか」
「クリスマスだからねぇ……。先生も今日くらい、平ちゃんから無理にでも麻奈美ちゃんを奪ってもいいものを」
 チヨの発言に麻奈美は思わずビクリとしたけれど、調理台に置いてある材料は溢さずに済んだ。平太郎も麻奈美と同じで、電動ハンドミキサーでボウルの底を強く擦ってしまった。
「今のは何の音だい、平ちゃん」
 呆れるチヨに平太郎は何も答えず、そのまま調理を続けた。
 作業がほぼ平太郎任せになった頃、チヨと三郎は麻奈美にホットコーヒーを淹れるように頼んだ。いつもはミルクも付けて出すが、今日はケーキを食べるつもりだと聞いているので敢えて何も付けない。
 カランコロン……
 ようやく客が来店するようになり、麻奈美はいつも通りの仕事に切り替えた。お盆に水とおしぼりを乗せて、予約客を優先させてクリスマスメニューを出す。予約していない客たちには、限定メニューが数少ないことを最初に説明する。
 大夢のことをよく知っている人たちがほとんどだったので大した混乱はなく、麻奈美と平太郎は交代で昼休憩をとることが出来た。それでもいつもの二倍以上の来客だったので、ドアの札を『closed』に変えた時には二人の顔に笑顔はなかった。
「御苦労さま、本当に助かったよ。片付けは良いから、今日はもう帰りなさい」
「え? いいよ、手伝うよ」
 麻奈美はテーブルを拭きながら、ついでに小瓶の中の角砂糖も見た。甘いケーキを出したせいか、いつもに比べるとそんなに減っていない。
「勉強、あるんだろう」
「うん。でも、明日にするよ。今日はもうダメ」
「今日は何の日か知ってるだろう。私も、鬼じゃないからな」
 平太郎が何を言おうとしているのか、麻奈美は正しく判断したけれど。
「いいよ、手伝うよ! だいいち……何も約束してないもん」
 腰に手を当てて溜息をつく平太郎を尻目に、麻奈美はそのままいつものように片づけを手伝った。

 もしかしたら、と期待していたわけではないけれど、麻奈美は昨日まで芝原からの連絡を待っていた。けれど、いつまで待っても連絡が来ることはなく、今日も珍しく店には来なかった。学校はすでに冬休みに入っていて、彼とは数日、会っていない。
 もちろん、彼とは──関係は変わっていない。
 芝原は教師で、麻奈美は生徒。
 大夢からの帰り道、冷たくなった手を、はぁー、と温めたとき、
「お疲れさま。今日は大変だったね」
「え──先生、どうしてここに?」
 今までに何度か待ち伏せされたことのあるその場所に芝原が立っていた。
「どうしてって、会いたかったから」
「あ、あいっ……、お店に来てくれたら良かったのに」
 妙に素直な芝原に麻奈美は面食らった。
 数日振りに会うのも手伝って、上手く言葉が出てこない。
「行こうと思ったけど、外から見て忙しそうにしてたから……それに、出来れば今日はマスターの視線を感じないところが良かったし」
 言いながら芝原は笑い、麻奈美もあとからつられて笑った。
「まだ、麻奈美ちゃんには何も出来ないけど──今日限定でオフにするよ」
「オフ……?」
「今から──数時間しかないけど、麻奈美ちゃんを彼女にしたい。ダメかな」
「えっ──」
 麻奈美が動けずにじっと芝原を見つめているのを「OK」と判断して、芝原は麻奈美の手を引いて歩きだした。
「こないだは学校に戻ったけど、今日はデートしよう」
「……は、はい」
 突然のことに戸惑いながら、光恵に連絡をしなければと思いながら、綺麗な夜景が見たいな、と麻奈美は思った。
 同時に、繋がれた芝原の手が自分以上に冷たくて、平太郎の手伝いをしなければ良かった、と思った。
「これから、車ですか?」
「うん。そうだけど」
「じゃあ──冷えてたら運転しにくいですよね」
 麻奈美は芝原の手を一旦離し、すぐに自分の両手で包み込んだ。
 必然的に、彼に寄り添った。
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