角砂糖が溶けるように

9-4 角砂糖を二つ

 佐崎親子が大夢から帰ったあと、麻奈美はひとり先ほどの席に戻った。他の三人の空になったコーヒーカップは、平太郎が既に片付けていた。
 入学金免除の話を聞いた時は、確かに嬉しかった。
 川瀬家は麻奈美が星城高校に通うだけで精いっぱいで、もちろん無償で手伝っている大夢も、それほど儲かってはいないので平太郎にもお金はない。
 けれど──いくら好意とはいえ、甘えてしまうのは嫌だった。
 友人・香織が未来学園関係者だったことも気になって、余計に気は進まない。
 平太郎と学長が知り合いだったことも──平太郎も本当に知らなかったと言っていた──やはり、免除を受ける気持ちは起こらない。
 すっかり冷めてしまったコーヒーを見つめ、麻奈美は「どうしよう」と呟いた。
「だいぶ悩んでるみたいだね」
 カウンターに座っていた芝原がカップを持って麻奈美の前に移動してきた。
「悩みますよ……どうしたら良いんですか」
「それは、麻奈美ちゃんの問題だよ」
「だが君は」
 芝原と麻奈美の現在の関係を正しく知っている平太郎は、芝原の行動を監視していた。クリスマスに麻奈美とデートしたことを、まだ完全には許していない。
「教師だろう。相談に乗ってやってくれんか。それから、できればコーヒーも残さないように指導してくれ」
 それだけ言うと平太郎は奥の居住部分へと姿を消した。麻奈美は入口が見えるほうを向いて座っているし、いつもと同じなら、来客はほとんどない時間だ。
「おじいちゃん、まだ怒ってますよ」
「うん、一応、謝ったんだけどね。本当にこの先、大変だろうな」
 芝原がいつのことを言っているのかわからないけれど、麻奈美は「そうですね」と笑った。
「私はただ、好きでいろいろ覚えただけで……友達にお世話になんかなれない。なりたくない。そんなこと、したくない……」
 香織もきっと、最初に麻奈美に声をかけた時、そんなことは考えていなかったに違いない。麻奈美が着ている制服に興味をもっただけで、大夢で働いているなんて思わなかったはずだ。
「お店を出すときに手伝ってもらうのも、結局一緒か」
「はい。しかも、それがいつになるかもわからないのに……」
 けれど、佐崎親子には入学までに何らかの返事をすると約束した。
 コーヒーカップを持ったまま、麻奈美はじっと手元を見つめていた。視界の隅で何かが動いて、やがて麻奈美のコーヒーの中に何かが二つ入れられた。
「……何を入れたんですか?」
「何って、砂糖だよ。それからミルク──これくらいかな」
 ソーサーの上に置いてあったスプーンを取り、芝原は麻奈美のコーヒーを混ぜた。黒に近かった色が、明るい栗色になった。
「僕の勘が当たってれば、麻奈美ちゃんでも飲める、はず」
 笑っている芝原を信じ、麻奈美は恐る恐るコーヒーを持ち上げた。少し強かった香りは柔らかくなっていて、思い切って飲んだ。
「どう? 大丈夫?」
「え、何これ……美味しい……」
 去年、芝原が教育実習に来ていた時に自分で淹れて飲んだのとは全然違う味だった。それから、いつか大人たちがコーヒー論で盛り上がっていたことを思い出し、その内容にものすごく頷けた。
「こんなに美味しいものだったんですか? なんで今まで飲まなかったんだろう」
 後悔する麻奈美の前で芝原は笑った。
「マスターのは、僕が知ってる中では一番美味しいよ。今はミルクも砂糖も多めに入れたけど、慣れてくれば、ブラックが良いと思うようになるよ」
「それは、さすがに無理ですよ」
「そうかな? でも、僕も、通い始めた頃は甘いの飲んでたよ。それがいつの間にか、ブラックで飲めるようになってた」
「ふぅん……先生にもそんな時があったんですね」
 麻奈美が笑うと、芝原も笑った。
「そんな時って、まぁ、昔は、あれだったから。──無理はしたくなかったんだと思うよ。甘すぎないように、飲める程度に甘くして。でもある日、砂糖入れすぎたら身体に悪いんじゃないか? って気付いて。それからだんだん減らしていって、あんまり入れなくても大丈夫だってわかって。麻奈美ちゃんに出会ったのはその頃かな」
 確かに麻奈美がいつも芝原セットを片づけるとき、ミルクは半分くらい残っていた。砂糖もほとんど使った形跡がなかったので、一番奥のテーブルはあまり補充をしていない。
「さっきの、免除の話もそうだけど──無理に受けなくても良いよ。どうしても金銭的に厳しいなら別だけど……。助けてもらうのが嫌なら、逆に麻奈美ちゃんに出来ることを提供すればいいし」
「私に出来ること?」
 自分に何が出来るだろう、と麻奈美は首を傾げた。
 専門学校に協力して、麻奈美が力になれそうなこと。
「こう言ったらマスターが機嫌悪くしそうだけど、麻奈美ちゃんがここを継いだら今より良いお店になると思う。前に言ってたけど、メニュー増やしたらお客さんも増えるだろうし。今の人数では対応しきれなくなる」
「でも、アルバイトとか雇う余裕があるかは──」
「そこだよ」
 芝原は笑顔で麻奈美を見ていた。
「今の麻奈美ちゃんと同じこと。麻奈美ちゃんがここを継いだとき、学生の実習にここを使わせてあげたら? それなら後々、金銭トラブルもないだろうし。あくまで、僕の意見だけど」
「先生──それにします! ありがとうございます!」
 姿勢を正して喜んでから、麻奈美はようやくコーヒーの存在を思い出した。これから勉強するものなのに飲めないなんて言えないな、とひとり苦笑する。
 芝原は、麻奈美がコーヒーを飲むのをじっと待った。カップが空になったのを確認してから、カウンター席に戻った。平太郎はいつの間にか、戻ってきていた。
「サンキュ」
 一言だけ言って、平太郎はまた作業を始めた。
 心の奥では、平太郎は麻奈美とのことを認めてくれているのかもしれない。
 芝原はそう思った。
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