角砂糖が溶けるように
エピローグ

ひなまつり

「ただいまー」
「あっ、おかえり。早かったね」
「うん。仕事は残ってたけど、みんなが早く帰れ、ってうるさくて」
 麻奈美は作業していた手を止めて、颯太の荷物を受け取った。それから颯太がネクタイを外す仕草をじっと見つめてしまう。
「なに? 何かついてる?」
「う、ううん。颯太がかっこいいなーと思って」
「はは、何だよ、今頃。何年一緒にいるんだよ」
「だって──」
 颯太の荷物を抱えたまま、麻奈美は少し膨れた。颯太はネクタイをするりと外すと、そのままシャツも脱いで楽な服装に着替えた。
「でも、嬉しい。ありがとう」
 自分の荷物を受け取りながら、颯太は麻奈美の頬にキスをした。
「もう、颯太! 何でもそれで済むと思って!」
 麻奈美は怒って言ったけれど、それで──済んでしまうのは事実。颯太に優しくされてしまうと、どんなに腹が立っていても、なかったことになってしまう。
 ホワイトデーの夜に颯太がプロポーズしてから五年。
 専門学校一年目は、麻奈美は実家から通っていたが、二年目からは颯太と同棲を始めた。卒業してからは、結婚するという選択肢もあったけれど、都合がつかないまま三年が経った。小言を言いあうことはあるけれど、麻奈美と颯太は仲良く暮らしていた。
 麻奈美は今まで通り大夢を手伝いながら、在宅で出来る仕事も始めた。颯太はときどき大夢に来ては、平太郎にブツブツ言われている。ちなみに平太郎はまだまだ元気にしているが、麻奈美に店を譲る気持ちも出てきているらしい。
「ねぇ、颯太──背中流してあげようか? 独身最後に」
「ああ……うん。お願い」
 麻奈美と颯太は、結婚式を明日に控えていた。
 だから颯太の同僚たちが、「早く帰れ」と言ってくれた。もちろん、その中には彼もいたらしく……。
「片平に言われたよ、麻奈美を泣かせたら、一生口きかない、って」
「ははは、何それ。修二らしいな」
「だから言ってやったんだ、麻奈美を泣かせたのは、五年前が最後だ、って」
 修二も無事に星城高校の教師になり、実習を担当したのは颯太だった。教えている学年は違っても、科目が同じだから職員室での席は近いらしい。
 颯太が浴室に入ってしばらくしてから、麻奈美も中に入った。彼の裸を見るのは初めてではなくなってしまっているけれど、改めて見ると、本当に綺麗だった。
「明日から、何か変わるのかな」
 颯太の背中を洗いながら、麻奈美は聞いた。
「さぁ……特に変わらないと思うよ」
 麻奈美は持っていたスポンジを置いて、自分の手で颯太の背中に触れた。なんとなく、自分で洗ってあげたかった。
 肩から背中をなぞるように何度も上下して、それから腕のほうへ──。
「麻奈美、それ、やめた方が良い」
「え? なんで?」
 颯太がどういう意味で言ったのかわからず、麻奈美はそのまま手を動かした。
「その──一緒に入ろう」
 颯太は振り返り、麻奈美が着ていたシャツのボタンに手を掛けた。
「ちょ、ちょっと待って、服が、石鹸!」
「いいよ、僕が洗うから」
「よ、良くないし、この服、まだ新しいし──」
 麻奈美が抵抗するのをまったく聞かず、颯太は片手でボタンを上から外しながら、もう片方で自分に引き寄せる。颯太についていた石鹸の泡が、麻奈美の服に染みて消える。
「もう……なんか……颯太……」
「僕は準備万端。だって、既に何も着てないし」
「……おじいちゃんが聞いたら、ゲンコツで済まないよ」
 麻奈美も颯太に手伝ってもらいながら着ているものを脱ぎ、浴室から手を伸ばして洗濯機に入れた。そしてスポンジを持って待っていた颯太に任せて洗ってもらった。
「一緒に入るのって、初めてだね」
 洗い終わってから湯船に入り、麻奈美は颯太の腕の中にいた。
 ベッドの中で抱き合うことは何度かあったけれど、お風呂は今まで別々だった。
「だって、麻奈美、僕が帰る頃にはもう入ってたし。ひどい時は、寝てるもんな」
「──そこを襲いに来るのは誰だったかなぁ」
「ははは、僕。でも麻奈美も怒らないし」
 麻奈美と颯太が初めて一緒に過ごした夜、颯太は何の躊躇もなく麻奈美を抱いた。最初は痛くて泣いてしまったけれど、颯太はずっと優しくしてくれた。だから麻奈美は颯太を信じて、いつでも彼を受け入れることにした。どうしても嫌なとき以外は。
 お風呂からあがると、そのまま二人で寝室に向かった。並んでベッドに横になり、向かい合った。颯太の手が、少し濡れた麻奈美の髪を撫でた。
「ねぇ、颯太。明日、何の日か知ってる?」
「明日? 結婚記念日? まだしてないけど」
「そうだけど……ひなまつりだよ。昔、お母さんがずっと、いつまでも雛人形を飾ってると嫁に行けない、って言ってたの」
「ははは。良かった、結婚できて。片付けさぼってなかったんだな」
「うん……お母さんがね。私はいつも、逃げてお店に行ってたよ」
 麻奈美を叱ってやろうかと思った次の瞬間、颯太はその気が失せた。
「颯太に会いたくて。あ、でも、二年の時は、片付けたよ」
 麻奈美を怒る気は全くしない。
 むしろ、仕事もしないで食事もしないで、麻奈美にずっと触れていたい。
「いつかは私も、娘にそんなこと言う日が来るのかな。って、なにー颯太、また?」
「またって、今日は何もしてないよ」
 颯太は笑いながら、麻奈美のパジャマのボタンを器用に外していく。そして上から二つ外したところで、隙間から片手を中に入れていく。到達するところは──お風呂上がりだから、何もつけていない。
「ひゃっ、もう……私は真面目に話してたのに」
「僕だって真面目だけど? 何もしないと、子供も出来ないし」
 そう真面目な顔で言いながら颯太は自分のパジャマを脱ぎ捨て、麻奈美に深く口づけた。何度も音を立てながら、もっと深いところへ麻奈美を連れていく。片手は自分の身体を支えながら、もう片方は中途半端な麻奈美のパジャマのボタンに手をかける。
「颯太のわがままは、結婚が最後じゃなかったね」
「──そうだな。ごめん」
「いいよ。いくらでも聞いてあげるから」
「こら、年上を子供扱いするな」
 麻奈美と颯太の日常は、まるでミルクたっぷりのカフェオレみたい。
< 82 / 84 >

この作品をシェア

pagetop