アンノウアブル!憧れだった先輩が部下になりました
「さて、次は204号室だな」
蓮見は腕まくりをすると気合いを入れ直す。その行動に千里はつい数分前の蓮見の行動を思い出す。
「は、蓮見君。くれぐれも扉を思い切り叩くのだけはやめてね」
今度こそ警察官らしく、普通に聞き込みがしたい。
「あのな、部屋から出てこねぇやつ相手に正攻法で攻めても意味ねぇの」
「だ、だからってあんなに思い切り叩かれたら怖わがって出るものも、でてこないわよ。相手の人が女性なら尚更そう思うはずよ」
千里は言い聴かせるようにして、蓮見を説得する。きっと居留守を使っているのには何か理由があるのだ。故に強引に聞き込みを行うのはあまり賢い選択とは思えない。
蓮見は千里の言葉に暫く押し黙ると、何か納得したように「わーったよ」と呟いた。
二人は再び204号室の扉の前に立つと、今度は千里が扉を遠慮気味に叩く。
「結局、叩くんじゃねぇか…」
「ノ、ノックくらい問題ないでしょ、インターホン押してもでてこないんだから…」
「これで、出てこなかったら?」
「そ、その時はもう少し強めに…」
「…」
半ば呆れ顔の蓮見に千里はわざとらしくスーツの襟元を正す。
「と、とにかく。私が声掛けするから、蓮見君はちょっと待ってて」
「へいへい」
「こんにちは、警察のものですが、少しお話を伺えないでしょうか?」
……。
「少しお話しを伺いたいだけなんです、可能であればお名刺だけでもお渡ししたいのですが…?」
千里は遠慮気味に尋ねる。しかし、扉が開く気配はない。
「ほんの、一分程度ですので、お時間は取らせません。お願いします。ここを開けてもらえないでしょうか?」
……。
「ほら、どーすんだ?」
後ろで蓮見が腕を組みながら、意地悪そうに笑う。
「もう、静かにしてて。ちゃんとやるから」
千里はそういうと、再び咳払いをし扉を叩く。
「206号室で人が殺されたみたいなんです。彼女のご家族は今も犯人の逮捕を待っています。可愛い一人娘さんだったそうです。犯人を逮捕するためにはみなさんのお話が重要な証拠になるかもしれないんです。お願いします。どうか、扉を開けて下さい。殺された方のためにも、どうか貴方の力を貸して下さい」
千里は必死に扉に声をかける。このまま何も聞かぬまま引き下がるわけにはいかない。
「お願いします。ここを開けてください」
しつこいなと思われても構わない。
「貴方の証言で犯人が捕まるかもしれないんです」
変なやつと思われても構わない。
「お願いします。ここを開けてください」
必死な女と思われても構わない。
ただ、被害に遭われたご家族に、もう大丈夫ですよ。悪いことをした奴は捉えましたよ。と言ってあげたい。
千里はそう思うと、何度も扉を叩いた。周囲で仕事をしていた捜査員が数名こちらを不思議そうに見ているが、今はそんなのお構いなしだ。
「お願いします!ここをあげて下さい!少しだけお話を聞かせて下さい」
……。
「お願いします!」
右手の甲が徐々に赤くなる。何度も固い扉を叩いているのだから、当然と言えば当然だが千里の小さな手にはそれが痛々しく見えた。
「ここを開けて下さい、お願いします!」
千里が何度目かのお願いをしたときー、
「もういい」
何者かの大きな手が千里の小さな手に重なる。突然のことに千里は驚いて、視線を動かす。
「先輩、もういい。手が痛々しい」
視線の先にいたのは、先ほどまで警視庁にいたはずの紅葉であった。
「こ、紅葉」
紅葉は軽く頭を下げると、千里の後ろに突っ立ていた蓮見を睨みつける。
「おい、新人。仕事を抜け出しといて、俺を呼び出すとはいい度胸だな」
「どうせ、暇だったろ?」
蓮見はさして気にする様子もなく首筋を掻く。
「暇だと?お前のお陰で、やりかけの仕事放り出してここまで来たこっちの身にもなってみろ」
「おお、そりゃご苦労さん」
「んだと…」
「ちょ、ちょっと!やめてよ、二人ともこんなところで!」
火花をバチバチ光らす二人の間に千里は慌てて割って入る。こんなところで喧嘩なんてされたら、今度こそ凛子さんに何と言われるかわからない。
千里の必死な訴えに、紅葉は仕方なく怒りを鎮める。そもそも、千里が危ないという連絡を受けて仕事を放り出して車を飛ばしてきたわけだが、見たところ特に問題はなさそうだ。
(あんにゃろう、騙したな)
「騙したって何が?」
何か合点が言った表情の紅葉に千里は首を傾げる。
「いや、こっちの話。それより先輩、さっきから何してたんスか?」
紅葉は千里の小さな手を指さして尋ねる。
「あ、あぁ。ここの204号室の人に聞き込みをしようとしてるんだけど、なんか出てきてくれなくて…」
千里はこれまでの経緯を紅葉に出来るだけ簡単に説明する。
「んで、あんな叩いてたんスか…」
紅葉はどこか切ない表情で、千里を見つめる。
「あんま、無理しないで下さい」
そう言って千里の小さな手を握りしめる紅葉に蓮見が盛大に咳払いをする。
「んで?どーすんだよ、全然出てこねぇぞ」
「ここは、無理矢理にでも引き摺り出すしかねぇ…」
蓮見の嫌味に紅葉は腕まくりをする。
「や、やめてよ。もっと平和的に行きましょう」
204号室の前が一段と騒がしくなる。三人でどう聞き込みを行うべきか、話し合い?を重ねていると、突然、どこからともなく女性の声が響いた。
「あの…」
三人はほぼ同時に声のする方へと視線を動かす。
「紅葉君…なの?」
なんと、あれだけ開かなかった開かずの扉から一人の女性が遠慮気味に顔を出してこちらの様子を伺っていたのだ。
(開いたー!)
千里は顔を綻ばせる。
「そ、そうです!こっちが紅葉で、私は我妻千里といいます!」
バタンー!
「え?」
時間にして、三秒くらいだったと思う。女は千里の言葉を聞くと再び扉を強く閉めてしまった。
「あ、あの!何で閉めちゃうんですか?開けて下さいよ!」
再び扉を叩きながら説得する。しかし、女は出てくる気配がない。
「あの!」
「紅葉君…、以外とは話したくない…」
扉越しから聞こえてくる女の要求に、千里は紅葉に助けを求める。紅葉はそんな千里の様子に、一つため息を吐くと仕方なく声を上げた。
「紅葉っスけど、…」
すると、再び扉が静かに開く。
「こ、紅葉君…、久しぶり…」
「あんた、誰?」
あまりにも直球すぎる質問に、千里と蓮見はその場にずっこけそうになる。
「こ、こら、紅葉!」
千里は小声で何とか紅葉に合図を送る。しかし、当の本人はよく理解していない。
「わ、私よ…、中学の時一緒のクラスだった…」
「一緒のクラス?」
「そ、そう。覚えてない?」
「覚えてねー」
「…」
あぁ、そうだ。彼は元々、思ったことを口にするタイプの人間である。故に相手の思いを察するなんて高度なコミュニケーション技術は持ち合わせていない。
「な、名前が分かれば紅葉も思い出すかも!ね?紅葉!」
千里は慌てて二人の間に割り込む。このまま気分を害されて扉を閉められては元も子もない。
「ま、間宮高子《まみやたかこ》です…」
「…」
「中学時代隣の席だった…」
「…」
紅葉の表情を見るに、どうやら本当に記憶に無いらしい。
確かに千里自身も中学時代、隣の席に座っていた人間のことなどあまり記憶に残ってはいない。残っているとすればその相手が初恋の相手だった場合だが…
そこまで考えて、千里は合点がいった。
(そうか、だから出てきたのね)
恐らく、彼女は昔懐かしい初恋の相手と気づいて扉を開かずにはいられなかったらしい。
間宮は黙り込んでしまった紅葉にどうしていいかわからずもじもじとしている。
まずい、何か会話を続けなくては…
「ま、間宮さんだって!こんな美人さん私だったら忘れないなぁ」
千里はどこかわざとらしく紅葉に会話の続きを促す。
「知らねぇもんは、知らねぇ」
「嫌だもう、照れちゃってー」
おばちゃん顔負けの鬱陶しさで紅葉の背中を叩く。
(紅葉よ、嘘でもいいから話を合わせてくれ)
「別にそうでもねぇだろ」
「あんたね!」
駄目だ、この男には察するという能力は無いらしい。そんな時だった。
「もしかして、西高の間宮さん?」
先ほどまで腕を組んで事の様子を伺っていた蓮見が突然、口を開いた。
「え?」
予想外の人物からの問いかけに間宮は驚いて蓮見の方を見る。
「そうだけど…」
「おお、やっぱり。サッカーの試合見に来てくれてたよな」
蓮見はニカっと人懐っこい笑顔を見せる。
「あ、貴方もしかして松蔭高の蓮見先輩?」
間宮は驚いたように口に手を当てる。その仕草が、まるでファンだった有名人に遭遇した時のような感じに見えたのは千里の気のせいでは無い。
「おう、お前よく応援しに来てたよな。元気してたか?」
「え、何で私のこと覚えてるんですか?」
「覚えてるも何も、お前よく俺に差し入れくれたじゃん」
間宮は目を見開く。
「そ、そんなこと覚えててくれたんですか…」
「え?あぁ、まぁ嬉しかったしな」
蓮見はさして気にする様子もなく答える。千里は内心「この天然人たらしめ!」突っ込みを入れる。
「それよりさ、昨日起きた事件についてなんか知ってることねぇ?俺ら困っててさ…」
蓮見の言葉に間宮は少し考える。
「い、言い争いみたいな声は聞こえたかも…」
「まじ?それ何時頃?」
「…何時だったかな、寝る前だったから、十二時くらいかな」
「なんて言ってたか、聞こえたか?」
「大まかな内容はわからないんだけど、ケイジがどうのこうの…って言ってたような気がする」
「ケイジ?」
間宮の言葉に千里は小首を傾げる。ケイジといえば警察の刑事を連想させるが、一体それがどうしたのだろう。
「他に何か聞こえた?」
「ケイジは良く無い。とか、ケイジは駄目だ。とか、何でケイジなんだ。とか…」
「刑事の知り合いでもいたのかしら?」
「それか、もしくは人の名前って線も考えられるな」
間宮の証言に千里と蓮見は顔を見合わせる。
「多分、人の名前だと思います」
間宮はそんな二人に遠慮気味に答える。
「なんで、そう思ったんだ?」
「なんでって…、女性の方がケイジ君って言ってましたから」
「となると、交際のもつれってところかしら」
現状、考えられることとしてはケイジという第三者が被害者と加害者に何らかの関係をしているらしい。
「もしくは、一方的なもつれ…」
唐突に紅葉が呟く。
「何よ、それ」
「よくあんだろ…、一方的に想い寄せて、正義感振り回す奴」
要するに、ストーカーということだろうか?
「ま、まぁ、その線も考えられるわね。どっちにしろ、そのケイジっていう人を探すのが先決ね」
千里はそういうと、満足そうに蓮見に微笑む。一瞬、蓮見は驚いたような表情を見せたが、すぐに元の表情へと戻した。恐らくこの小さな変化に気がついたものはこの場には誰一人としていない。
「ま、これですぐにケイジって奴が見つかればいいけどな」
「き、きっと見つかるわ!この後会社にも聞き込みに行くし、女性ならきっとそういう話をしてるはずよ!そうと決まれば早くここの聞き込みを済ませちゃいましょう!紅葉、私はこの階の残りを済ませるから、貴方は一階の住民をお願い」
「…了解」
先ほどまでの悲壮感はどこへやら、千里は意気揚々と隣の部屋へ突撃しに行った。
「ったく、調子いいやつだな…、あ、そういや間宮さん」
「は、はい…!」
突然名を呼ばれた間宮は分かりやすく驚いて見せる。
「何で居留守なんて使ったんだよ?」
「…」
「あんま、心象良くねぇから今度から警察の聞き込みには出た方がいいぜ」
今後、そんなことがあるかどうかは定かでは無いが、蓮見は妹に注意するような口振りで居留守の件について指摘する。
「ご、ごめんなさい…。私、人と話すの凄い苦手で…、その、警察の人が来ているのは知っていたから、聞き込みだってわかってはいたんだけど、対面で話すと上がっちゃって…それで、お腹痛くてトイレに…」
どうやら、この間宮という女性は極度の対人恐怖症であるらしい。
「そうか…、悪かったな扉叩いたりして」
蓮見はどこか申し訳なさそうに答える。
「い、いいの、そもそも私が出なかったのが悪いんだし…」
「でも何で紅葉には声かけようと思ったんだよ、我妻と大層な差だったぜ?」
本来であれば、話しかけにくいのは紅葉の方に思えるが。間宮は千里を拒絶しているように見えた。
「私、女の子に虐められてたから…、男の子より怖いの。だから、どうしても拒絶反応がでちゃって…こ、紅葉君に声をかけられたのは昔何度か助けてもらったことがあるから」
「紅葉に?」
「うん。多分彼は覚えてないんだろうけど、私何回か体育館倉庫に閉じ込められちゃったことがあったんです」
蓮見は真剣に間宮の話に耳を傾ける。
「真夏の日で、暑くて、今日とは正反対に私が倉庫の扉を必死に叩いてました。そしたら、どんどんしんどくなって来て、もうこのまま死んじゃうのかなって思ったんです。でも、その時、突然倉庫の扉が空たんです」
当時のことを思い出しているのか、間宮は震える手をぎゅっと握りしめる。
「そしたら、そこに紅葉君と先生が居て…、多分彼は倉庫から変な音がするから先生を連れて来ただけだと思うんですけど、それでも私は凄く救われた…、だからー」
会ってお礼がいいたかったー
そう言って俯く彼女の姿に、蓮見は何もいえなかった。ただ彼女にとって紅葉はかけがえのない存在なのだと実感せざるを得なかった。
しばらくの沈黙の後、間宮は静かに「じゃあ、私はこの辺で…」と言って扉を閉じようとした。しかしー、
「待って」
蓮見は閉まりかかった扉に手をかける。
「ここの聞き込みが終わったら紅葉をあんたの部屋に行くように伝えておくから、だから、そん時ちゃんと礼言ってやれよ。きっと喜ぶぜ」
思っても見なかった提案に、間宮は目を見開く。
「あ、ありがとうございます…」
「だから、今度インターホン鳴らした時は居留守なんて使うなよ?」
蓮見はそう言って再び人懐っこい笑顔で間宮に微笑むと、次の聞き込み現場へと姿を消した。
蓮見がいなくなると、間宮は扉に寄りかかる。
(蓮見先輩…、貴方って昔からいい人)
『お前、よく差し入れくれたじゃんー。』
この言葉には少し不備がある。実際には紅葉に渡せなかった差し入れを蓮見に横流ししていただけだ。
きっと、彼も気づいていたと思う。だけど、当時、にこやかに差し入れを受け取ってくれたのは蓮見だけだった。
話によると、蓮見が差し入れを受け取るようになったのは、中三の夏かららしい。それまでは中々渡せないと嘆いているファンもいたそうだが、何かのきっかけで蓮見は差し入れをしっかりと受け取るようになった。
間宮はそれを都合よく利用していただけなのだが、彼はちゃんとそのことを覚えていた。
ただの一ファン、それも他校の人間だったにも関わらず、名前を聞き、差し入れを受け取り、お礼の言葉を述べてくれた。
(彼は優しいー)
きっと紅葉に出会っていなかったら確実に好きになっていたと思う。
(でも、私には無理…)
間宮は先ほどまで必死に扉を叩いていた女性を思い出して微笑んだ。
彼には、ああいう真っ直ぐな子が似合ってる。
蓮見は腕まくりをすると気合いを入れ直す。その行動に千里はつい数分前の蓮見の行動を思い出す。
「は、蓮見君。くれぐれも扉を思い切り叩くのだけはやめてね」
今度こそ警察官らしく、普通に聞き込みがしたい。
「あのな、部屋から出てこねぇやつ相手に正攻法で攻めても意味ねぇの」
「だ、だからってあんなに思い切り叩かれたら怖わがって出るものも、でてこないわよ。相手の人が女性なら尚更そう思うはずよ」
千里は言い聴かせるようにして、蓮見を説得する。きっと居留守を使っているのには何か理由があるのだ。故に強引に聞き込みを行うのはあまり賢い選択とは思えない。
蓮見は千里の言葉に暫く押し黙ると、何か納得したように「わーったよ」と呟いた。
二人は再び204号室の扉の前に立つと、今度は千里が扉を遠慮気味に叩く。
「結局、叩くんじゃねぇか…」
「ノ、ノックくらい問題ないでしょ、インターホン押してもでてこないんだから…」
「これで、出てこなかったら?」
「そ、その時はもう少し強めに…」
「…」
半ば呆れ顔の蓮見に千里はわざとらしくスーツの襟元を正す。
「と、とにかく。私が声掛けするから、蓮見君はちょっと待ってて」
「へいへい」
「こんにちは、警察のものですが、少しお話を伺えないでしょうか?」
……。
「少しお話しを伺いたいだけなんです、可能であればお名刺だけでもお渡ししたいのですが…?」
千里は遠慮気味に尋ねる。しかし、扉が開く気配はない。
「ほんの、一分程度ですので、お時間は取らせません。お願いします。ここを開けてもらえないでしょうか?」
……。
「ほら、どーすんだ?」
後ろで蓮見が腕を組みながら、意地悪そうに笑う。
「もう、静かにしてて。ちゃんとやるから」
千里はそういうと、再び咳払いをし扉を叩く。
「206号室で人が殺されたみたいなんです。彼女のご家族は今も犯人の逮捕を待っています。可愛い一人娘さんだったそうです。犯人を逮捕するためにはみなさんのお話が重要な証拠になるかもしれないんです。お願いします。どうか、扉を開けて下さい。殺された方のためにも、どうか貴方の力を貸して下さい」
千里は必死に扉に声をかける。このまま何も聞かぬまま引き下がるわけにはいかない。
「お願いします。ここを開けてください」
しつこいなと思われても構わない。
「貴方の証言で犯人が捕まるかもしれないんです」
変なやつと思われても構わない。
「お願いします。ここを開けてください」
必死な女と思われても構わない。
ただ、被害に遭われたご家族に、もう大丈夫ですよ。悪いことをした奴は捉えましたよ。と言ってあげたい。
千里はそう思うと、何度も扉を叩いた。周囲で仕事をしていた捜査員が数名こちらを不思議そうに見ているが、今はそんなのお構いなしだ。
「お願いします!ここをあげて下さい!少しだけお話を聞かせて下さい」
……。
「お願いします!」
右手の甲が徐々に赤くなる。何度も固い扉を叩いているのだから、当然と言えば当然だが千里の小さな手にはそれが痛々しく見えた。
「ここを開けて下さい、お願いします!」
千里が何度目かのお願いをしたときー、
「もういい」
何者かの大きな手が千里の小さな手に重なる。突然のことに千里は驚いて、視線を動かす。
「先輩、もういい。手が痛々しい」
視線の先にいたのは、先ほどまで警視庁にいたはずの紅葉であった。
「こ、紅葉」
紅葉は軽く頭を下げると、千里の後ろに突っ立ていた蓮見を睨みつける。
「おい、新人。仕事を抜け出しといて、俺を呼び出すとはいい度胸だな」
「どうせ、暇だったろ?」
蓮見はさして気にする様子もなく首筋を掻く。
「暇だと?お前のお陰で、やりかけの仕事放り出してここまで来たこっちの身にもなってみろ」
「おお、そりゃご苦労さん」
「んだと…」
「ちょ、ちょっと!やめてよ、二人ともこんなところで!」
火花をバチバチ光らす二人の間に千里は慌てて割って入る。こんなところで喧嘩なんてされたら、今度こそ凛子さんに何と言われるかわからない。
千里の必死な訴えに、紅葉は仕方なく怒りを鎮める。そもそも、千里が危ないという連絡を受けて仕事を放り出して車を飛ばしてきたわけだが、見たところ特に問題はなさそうだ。
(あんにゃろう、騙したな)
「騙したって何が?」
何か合点が言った表情の紅葉に千里は首を傾げる。
「いや、こっちの話。それより先輩、さっきから何してたんスか?」
紅葉は千里の小さな手を指さして尋ねる。
「あ、あぁ。ここの204号室の人に聞き込みをしようとしてるんだけど、なんか出てきてくれなくて…」
千里はこれまでの経緯を紅葉に出来るだけ簡単に説明する。
「んで、あんな叩いてたんスか…」
紅葉はどこか切ない表情で、千里を見つめる。
「あんま、無理しないで下さい」
そう言って千里の小さな手を握りしめる紅葉に蓮見が盛大に咳払いをする。
「んで?どーすんだよ、全然出てこねぇぞ」
「ここは、無理矢理にでも引き摺り出すしかねぇ…」
蓮見の嫌味に紅葉は腕まくりをする。
「や、やめてよ。もっと平和的に行きましょう」
204号室の前が一段と騒がしくなる。三人でどう聞き込みを行うべきか、話し合い?を重ねていると、突然、どこからともなく女性の声が響いた。
「あの…」
三人はほぼ同時に声のする方へと視線を動かす。
「紅葉君…なの?」
なんと、あれだけ開かなかった開かずの扉から一人の女性が遠慮気味に顔を出してこちらの様子を伺っていたのだ。
(開いたー!)
千里は顔を綻ばせる。
「そ、そうです!こっちが紅葉で、私は我妻千里といいます!」
バタンー!
「え?」
時間にして、三秒くらいだったと思う。女は千里の言葉を聞くと再び扉を強く閉めてしまった。
「あ、あの!何で閉めちゃうんですか?開けて下さいよ!」
再び扉を叩きながら説得する。しかし、女は出てくる気配がない。
「あの!」
「紅葉君…、以外とは話したくない…」
扉越しから聞こえてくる女の要求に、千里は紅葉に助けを求める。紅葉はそんな千里の様子に、一つため息を吐くと仕方なく声を上げた。
「紅葉っスけど、…」
すると、再び扉が静かに開く。
「こ、紅葉君…、久しぶり…」
「あんた、誰?」
あまりにも直球すぎる質問に、千里と蓮見はその場にずっこけそうになる。
「こ、こら、紅葉!」
千里は小声で何とか紅葉に合図を送る。しかし、当の本人はよく理解していない。
「わ、私よ…、中学の時一緒のクラスだった…」
「一緒のクラス?」
「そ、そう。覚えてない?」
「覚えてねー」
「…」
あぁ、そうだ。彼は元々、思ったことを口にするタイプの人間である。故に相手の思いを察するなんて高度なコミュニケーション技術は持ち合わせていない。
「な、名前が分かれば紅葉も思い出すかも!ね?紅葉!」
千里は慌てて二人の間に割り込む。このまま気分を害されて扉を閉められては元も子もない。
「ま、間宮高子《まみやたかこ》です…」
「…」
「中学時代隣の席だった…」
「…」
紅葉の表情を見るに、どうやら本当に記憶に無いらしい。
確かに千里自身も中学時代、隣の席に座っていた人間のことなどあまり記憶に残ってはいない。残っているとすればその相手が初恋の相手だった場合だが…
そこまで考えて、千里は合点がいった。
(そうか、だから出てきたのね)
恐らく、彼女は昔懐かしい初恋の相手と気づいて扉を開かずにはいられなかったらしい。
間宮は黙り込んでしまった紅葉にどうしていいかわからずもじもじとしている。
まずい、何か会話を続けなくては…
「ま、間宮さんだって!こんな美人さん私だったら忘れないなぁ」
千里はどこかわざとらしく紅葉に会話の続きを促す。
「知らねぇもんは、知らねぇ」
「嫌だもう、照れちゃってー」
おばちゃん顔負けの鬱陶しさで紅葉の背中を叩く。
(紅葉よ、嘘でもいいから話を合わせてくれ)
「別にそうでもねぇだろ」
「あんたね!」
駄目だ、この男には察するという能力は無いらしい。そんな時だった。
「もしかして、西高の間宮さん?」
先ほどまで腕を組んで事の様子を伺っていた蓮見が突然、口を開いた。
「え?」
予想外の人物からの問いかけに間宮は驚いて蓮見の方を見る。
「そうだけど…」
「おお、やっぱり。サッカーの試合見に来てくれてたよな」
蓮見はニカっと人懐っこい笑顔を見せる。
「あ、貴方もしかして松蔭高の蓮見先輩?」
間宮は驚いたように口に手を当てる。その仕草が、まるでファンだった有名人に遭遇した時のような感じに見えたのは千里の気のせいでは無い。
「おう、お前よく応援しに来てたよな。元気してたか?」
「え、何で私のこと覚えてるんですか?」
「覚えてるも何も、お前よく俺に差し入れくれたじゃん」
間宮は目を見開く。
「そ、そんなこと覚えててくれたんですか…」
「え?あぁ、まぁ嬉しかったしな」
蓮見はさして気にする様子もなく答える。千里は内心「この天然人たらしめ!」突っ込みを入れる。
「それよりさ、昨日起きた事件についてなんか知ってることねぇ?俺ら困っててさ…」
蓮見の言葉に間宮は少し考える。
「い、言い争いみたいな声は聞こえたかも…」
「まじ?それ何時頃?」
「…何時だったかな、寝る前だったから、十二時くらいかな」
「なんて言ってたか、聞こえたか?」
「大まかな内容はわからないんだけど、ケイジがどうのこうの…って言ってたような気がする」
「ケイジ?」
間宮の言葉に千里は小首を傾げる。ケイジといえば警察の刑事を連想させるが、一体それがどうしたのだろう。
「他に何か聞こえた?」
「ケイジは良く無い。とか、ケイジは駄目だ。とか、何でケイジなんだ。とか…」
「刑事の知り合いでもいたのかしら?」
「それか、もしくは人の名前って線も考えられるな」
間宮の証言に千里と蓮見は顔を見合わせる。
「多分、人の名前だと思います」
間宮はそんな二人に遠慮気味に答える。
「なんで、そう思ったんだ?」
「なんでって…、女性の方がケイジ君って言ってましたから」
「となると、交際のもつれってところかしら」
現状、考えられることとしてはケイジという第三者が被害者と加害者に何らかの関係をしているらしい。
「もしくは、一方的なもつれ…」
唐突に紅葉が呟く。
「何よ、それ」
「よくあんだろ…、一方的に想い寄せて、正義感振り回す奴」
要するに、ストーカーということだろうか?
「ま、まぁ、その線も考えられるわね。どっちにしろ、そのケイジっていう人を探すのが先決ね」
千里はそういうと、満足そうに蓮見に微笑む。一瞬、蓮見は驚いたような表情を見せたが、すぐに元の表情へと戻した。恐らくこの小さな変化に気がついたものはこの場には誰一人としていない。
「ま、これですぐにケイジって奴が見つかればいいけどな」
「き、きっと見つかるわ!この後会社にも聞き込みに行くし、女性ならきっとそういう話をしてるはずよ!そうと決まれば早くここの聞き込みを済ませちゃいましょう!紅葉、私はこの階の残りを済ませるから、貴方は一階の住民をお願い」
「…了解」
先ほどまでの悲壮感はどこへやら、千里は意気揚々と隣の部屋へ突撃しに行った。
「ったく、調子いいやつだな…、あ、そういや間宮さん」
「は、はい…!」
突然名を呼ばれた間宮は分かりやすく驚いて見せる。
「何で居留守なんて使ったんだよ?」
「…」
「あんま、心象良くねぇから今度から警察の聞き込みには出た方がいいぜ」
今後、そんなことがあるかどうかは定かでは無いが、蓮見は妹に注意するような口振りで居留守の件について指摘する。
「ご、ごめんなさい…。私、人と話すの凄い苦手で…、その、警察の人が来ているのは知っていたから、聞き込みだってわかってはいたんだけど、対面で話すと上がっちゃって…それで、お腹痛くてトイレに…」
どうやら、この間宮という女性は極度の対人恐怖症であるらしい。
「そうか…、悪かったな扉叩いたりして」
蓮見はどこか申し訳なさそうに答える。
「い、いいの、そもそも私が出なかったのが悪いんだし…」
「でも何で紅葉には声かけようと思ったんだよ、我妻と大層な差だったぜ?」
本来であれば、話しかけにくいのは紅葉の方に思えるが。間宮は千里を拒絶しているように見えた。
「私、女の子に虐められてたから…、男の子より怖いの。だから、どうしても拒絶反応がでちゃって…こ、紅葉君に声をかけられたのは昔何度か助けてもらったことがあるから」
「紅葉に?」
「うん。多分彼は覚えてないんだろうけど、私何回か体育館倉庫に閉じ込められちゃったことがあったんです」
蓮見は真剣に間宮の話に耳を傾ける。
「真夏の日で、暑くて、今日とは正反対に私が倉庫の扉を必死に叩いてました。そしたら、どんどんしんどくなって来て、もうこのまま死んじゃうのかなって思ったんです。でも、その時、突然倉庫の扉が空たんです」
当時のことを思い出しているのか、間宮は震える手をぎゅっと握りしめる。
「そしたら、そこに紅葉君と先生が居て…、多分彼は倉庫から変な音がするから先生を連れて来ただけだと思うんですけど、それでも私は凄く救われた…、だからー」
会ってお礼がいいたかったー
そう言って俯く彼女の姿に、蓮見は何もいえなかった。ただ彼女にとって紅葉はかけがえのない存在なのだと実感せざるを得なかった。
しばらくの沈黙の後、間宮は静かに「じゃあ、私はこの辺で…」と言って扉を閉じようとした。しかしー、
「待って」
蓮見は閉まりかかった扉に手をかける。
「ここの聞き込みが終わったら紅葉をあんたの部屋に行くように伝えておくから、だから、そん時ちゃんと礼言ってやれよ。きっと喜ぶぜ」
思っても見なかった提案に、間宮は目を見開く。
「あ、ありがとうございます…」
「だから、今度インターホン鳴らした時は居留守なんて使うなよ?」
蓮見はそう言って再び人懐っこい笑顔で間宮に微笑むと、次の聞き込み現場へと姿を消した。
蓮見がいなくなると、間宮は扉に寄りかかる。
(蓮見先輩…、貴方って昔からいい人)
『お前、よく差し入れくれたじゃんー。』
この言葉には少し不備がある。実際には紅葉に渡せなかった差し入れを蓮見に横流ししていただけだ。
きっと、彼も気づいていたと思う。だけど、当時、にこやかに差し入れを受け取ってくれたのは蓮見だけだった。
話によると、蓮見が差し入れを受け取るようになったのは、中三の夏かららしい。それまでは中々渡せないと嘆いているファンもいたそうだが、何かのきっかけで蓮見は差し入れをしっかりと受け取るようになった。
間宮はそれを都合よく利用していただけなのだが、彼はちゃんとそのことを覚えていた。
ただの一ファン、それも他校の人間だったにも関わらず、名前を聞き、差し入れを受け取り、お礼の言葉を述べてくれた。
(彼は優しいー)
きっと紅葉に出会っていなかったら確実に好きになっていたと思う。
(でも、私には無理…)
間宮は先ほどまで必死に扉を叩いていた女性を思い出して微笑んだ。
彼には、ああいう真っ直ぐな子が似合ってる。