鬼社長の迸る視線に今夜も甘く絆される

栞那の話を無言で聞く伊織。
突然のカミングアウトなのに驚く素振りも見せず、柔和な表情をしている。

「表向きは絵に描いたような家族でしたが、今振り返ると、それほど思い入れもなかったように思います。ただ、好きな勉強を好きなだけさせて貰えたことには、感謝してもしきれないですけど」
「……そうか」
「円満な家庭、温かい家族、美味しい食卓。それが、当たり前ではないと理解できたのは社会人になってからです。そういうものに憧れも抱いていませんでしたし、求めようともしませんでした」
「……ん」
「ですが、母の『おかえり』『いってらっしゃい』『おはよう』『おやすみ』といった、当たり前の挨拶は、今も記憶に鮮明に残ってます」

義務のように笑顔を張り付けていただろう母親でも、子供に対する愛情は確かなものだったはずだから。

「私にできることなんて何もないと思いますが、『お疲れさまです』くらいは毎日言えると思いますから」
「参ったな。……二本目も取られたか」

くしゃくしゃっと髪を掻き乱す伊織。
思いがけない栞那の優しさに触れ、照れる顔を伏せて隠す。

「三井から預かった鍵はあるか?」
「あ、はい」

栞那はリビングテーブルの上に置いておいた鍵を取って来る。
それを伊織に差し出した。
伊織はそれを手にして、もう片方の手で栞那の手を掴む。
そして、その手のひらにそっとそれを乗せた。

「この鍵は君に。毎日とは言わないが、来れる日はここに来てくれ」
「へ?」
「『お疲れさま』だけではなく、『おやすみ』も『おはよう』も言って欲しい」
「ッ?!!」
「そなたほど、(この)もしい女子(おなご)()うたことがない」
「え?」

意地悪く笑う伊織の言葉に、一瞬きゅんと胸が高鳴ってしまった。

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