どうして君は今更、好きなんて言えない、あの夏の恋
第1話 5月、出会
絶対、好きとは言わない、あんな奴に好きなんて言いたくない。
「好き」と口にした時のことを想像しただけで、寒気が立つ。
怒りが湧いて、どうしようもなく腹が立つ。
それなのにどうして、涙があふれるんだろう。
どうしてあんな奴が、バイト先にいたんだろう。
どうして私はバイト先に、あの店を選んだのだろうか、始めから近くのショッピングモールにしておけばよかったのに。
あんな奴、今まで出会ったことのない奇人、変人だった。
でもあいつは、「こんな人間いくらでもいる」と言っていた。
夢を叶えるってことは、こんな人間をいくらでも相手にしていかなくちゃいけないんだよと、いっていた。
「俺がもし、何気なく書いて、何気なく応募した小説が受賞したとしても、それでも君はその現実に負けちゃいけないんだよ」
二人だけの三次会で、彼は至極真面目な顔でさらりと言ってのけた。
センター試験では、一科目を除いてすべてパーフェクト。東大、京大ぐらいは入れたけど、夢のため、芸大に進んだ。でも、夢破れ、今は惰性で生きている彼。
自分は夢破れたが、私には「諦めなければ絶対にかなう」と断言した彼。
勉強家で、努力家で、何でも知ってて、それでいて見境なく女の子と遊んできた彼。自分でするなら、女の子を呼びつける彼。
欠点がないといっても言い過ぎではない彼は、恋人の何もかもをしてあげて、最終的にはダメな人間にしてしまいたいと言っていた彼。
どうしてそんな奴と出会ったのか、ブラックジョークもいいところだ。
一月、私は夢のため、執筆活動の時間を増やすために、不況なご時世、貴重な正社員職を辞めて、フリーターに転職した。
二十七歳になってからのフリーターへの転職。
無謀だと承知の上で覚悟は決めていた。
八年と半年、付き合っている彼氏の大斗(ひろと)も応援してるから頑張ってと、認めてくれた。
三十歳になる前になんとしてもデビューしたかった。
しかし今年で二十七歳、私はかなり焦っていた。
仕事を辞めて、五月上旬までは、甥っ子、姪っ子の遊び相手をしながら、執筆活動をしつつ、見聞を広げるために旅行にも勤しんだ。
その結果、貯金はおもしろいぐらい額を落としていった。
スマホ代も払うに危うい状態になったので、服も、靴も買えなくなった。
急きょバイトを探し、飛び込んだ飲食店は、和食カフェだった。
もうちょっとカフェ寄りのバイトを希望していたのだが、立派なお食事メニューもあって、「ヤバい、ちょっと違うかも」と思った。
その時に、バイト先を変えていればよかったのに、なぜかズルズル居座って、順調に仕事も覚えてしまったばっかりに、自分の首を絞めたのだ。
五月、ゴールデンウィーク明けの第三木曜日。
和食カフェの男性店員は私の履歴書に目を通してから、「包丁は持ったことある?」と訊いてきた。
「はい、ありますけど、家庭用の包丁なら」
「こういう所の包丁は持ったことない?」
「ありません」
シャープな顎で小さく笑った彼は「そうっかぁ」と、語尾をゆるやかに伸ばしながらの相槌を打った。
肩が広くて、長身。
ウエストが細くて、まるでマネキンだ。
切れ長の目は奥二重だった。
紺色の甚平制服がよく似合っていた。
面接の時に、一目で料理ができる人だと思った。
東京での一人暮らし(いつも誰かと暮らしていたらし)が長かったので、基本的に何でも作れると、後から聞いた話だ。
接客経験や、どのぐらいの頻度でバイトに来られるか質問され、私は就職試験を受けているような感覚で、「はい、はい」と受け答えした。
「じゃあ、とりあえず明日の十七時から来て」
「はい、わかりました。あの、来たら、あなたに声を掛ければいいんですか?」
「そうだね、制服もあるし」
面接は無事に終わり、翌日、夕日を背に初出勤した。
休憩場所を案内され、制服とエプロンを借り、慣れない手つきで腰にエプロンを巻きつけた。
夕方出勤の場合は、テーブルを拭き、残っている洗い物を済ませ、タオルの洗濯物を取り込んで、たたんでしまう。
初日は超初心者の私でも、一応できる仕事だった。
夜営業はさほど忙しくないらしく、来ても二組だった。
食器の洗い物をしていると、洗い場に彼が入ってきた。
長身のせいか、彼が横に立つと手元が少し陰った。
匂いがして、ついスーッと鼻で匂いをすいこんだ。
ああー、いい匂い、好みの香かもー。
「そういえば、俺たちタメなんだよ」
突然、そんなことを言われ、私は言葉に詰まった。
というか、とてもタメには見えなかった。
「え、そうなんですか!」
まだ初対面と言ってもいい、職場の上司に対して声を上げた。
「そうだよー、見えなかった?」
しゃべり方が、いちいちソフトだ。女っぽいんじゃない、女慣れしている話し方だ。
だからって悪印象はなかった。
イケメンとも違う系統で、とくにかく歩き方が格好良かった。特に後ろ姿。
しゅっとした背中に、腰回りが細い。
思わず、うわっと見惚れてしまう。
「見えなかったです。老けてるんじゃなくて、なんとなく」
自然と鼓動が高鳴って、しゃべりながら口ごもっていた。
彼は「雰囲気がってことでしょ」と苦笑いしながら、食洗機を掛け終えた食器を吹上げた。
なんだか彼とは話しにくい、必要以上のことも話さず、ハッキリ言ってどこかに行ってほしい。
「九時になったら上がっていいよ」
「あ、はい、あの、まだ洗い途中のものは」
「いいよ、やっとくから」
「あ、はい」
無言のまま、九時まで残り五分を切った。
洗い物しずらいよぉ、早く九時になれ!
すると手伝ってくれていた彼は洗い場を離れ、「おとうさん」とみんなから言われている店長と何か話し始めた。
話の内容からして、今日は特別客入りが悪いという話をしていた。
九時になり、洗い物は鍋や、揚げ物台など大物だけが手つかずに残った。
「すいません、お先に、お疲れさまでした」
もう早く帰ろう、私の中にはそれ一点のみだった。
「はーい、おつかれさま」
「お疲れさま、ありがとねぇ」
ありがとね、と言ってくれるのは店長だ。
六十歳を過ぎたぐらいの店長は、最初から最後まで温厚な方だった。
タイムカードを切って、私はそそくさとお店を後にした。
変に緊張する。
低すぎず高すぎない彼の声は、聞いていて心地いいぐらいだった。
もっと聞いていたいそんな感じの。
でも、話し辛い。
近寄りがたいオーラを放っていたし、今まで見てきた人たちとはまるで違う。
どこでどう生きてきたのか、彼の生い立ちまで気になるような、そんな異質的なオーラに異常に興味がわいた。
きっと、一目見たときから、彼に落ちていったのだ。
「好き」と口にした時のことを想像しただけで、寒気が立つ。
怒りが湧いて、どうしようもなく腹が立つ。
それなのにどうして、涙があふれるんだろう。
どうしてあんな奴が、バイト先にいたんだろう。
どうして私はバイト先に、あの店を選んだのだろうか、始めから近くのショッピングモールにしておけばよかったのに。
あんな奴、今まで出会ったことのない奇人、変人だった。
でもあいつは、「こんな人間いくらでもいる」と言っていた。
夢を叶えるってことは、こんな人間をいくらでも相手にしていかなくちゃいけないんだよと、いっていた。
「俺がもし、何気なく書いて、何気なく応募した小説が受賞したとしても、それでも君はその現実に負けちゃいけないんだよ」
二人だけの三次会で、彼は至極真面目な顔でさらりと言ってのけた。
センター試験では、一科目を除いてすべてパーフェクト。東大、京大ぐらいは入れたけど、夢のため、芸大に進んだ。でも、夢破れ、今は惰性で生きている彼。
自分は夢破れたが、私には「諦めなければ絶対にかなう」と断言した彼。
勉強家で、努力家で、何でも知ってて、それでいて見境なく女の子と遊んできた彼。自分でするなら、女の子を呼びつける彼。
欠点がないといっても言い過ぎではない彼は、恋人の何もかもをしてあげて、最終的にはダメな人間にしてしまいたいと言っていた彼。
どうしてそんな奴と出会ったのか、ブラックジョークもいいところだ。
一月、私は夢のため、執筆活動の時間を増やすために、不況なご時世、貴重な正社員職を辞めて、フリーターに転職した。
二十七歳になってからのフリーターへの転職。
無謀だと承知の上で覚悟は決めていた。
八年と半年、付き合っている彼氏の大斗(ひろと)も応援してるから頑張ってと、認めてくれた。
三十歳になる前になんとしてもデビューしたかった。
しかし今年で二十七歳、私はかなり焦っていた。
仕事を辞めて、五月上旬までは、甥っ子、姪っ子の遊び相手をしながら、執筆活動をしつつ、見聞を広げるために旅行にも勤しんだ。
その結果、貯金はおもしろいぐらい額を落としていった。
スマホ代も払うに危うい状態になったので、服も、靴も買えなくなった。
急きょバイトを探し、飛び込んだ飲食店は、和食カフェだった。
もうちょっとカフェ寄りのバイトを希望していたのだが、立派なお食事メニューもあって、「ヤバい、ちょっと違うかも」と思った。
その時に、バイト先を変えていればよかったのに、なぜかズルズル居座って、順調に仕事も覚えてしまったばっかりに、自分の首を絞めたのだ。
五月、ゴールデンウィーク明けの第三木曜日。
和食カフェの男性店員は私の履歴書に目を通してから、「包丁は持ったことある?」と訊いてきた。
「はい、ありますけど、家庭用の包丁なら」
「こういう所の包丁は持ったことない?」
「ありません」
シャープな顎で小さく笑った彼は「そうっかぁ」と、語尾をゆるやかに伸ばしながらの相槌を打った。
肩が広くて、長身。
ウエストが細くて、まるでマネキンだ。
切れ長の目は奥二重だった。
紺色の甚平制服がよく似合っていた。
面接の時に、一目で料理ができる人だと思った。
東京での一人暮らし(いつも誰かと暮らしていたらし)が長かったので、基本的に何でも作れると、後から聞いた話だ。
接客経験や、どのぐらいの頻度でバイトに来られるか質問され、私は就職試験を受けているような感覚で、「はい、はい」と受け答えした。
「じゃあ、とりあえず明日の十七時から来て」
「はい、わかりました。あの、来たら、あなたに声を掛ければいいんですか?」
「そうだね、制服もあるし」
面接は無事に終わり、翌日、夕日を背に初出勤した。
休憩場所を案内され、制服とエプロンを借り、慣れない手つきで腰にエプロンを巻きつけた。
夕方出勤の場合は、テーブルを拭き、残っている洗い物を済ませ、タオルの洗濯物を取り込んで、たたんでしまう。
初日は超初心者の私でも、一応できる仕事だった。
夜営業はさほど忙しくないらしく、来ても二組だった。
食器の洗い物をしていると、洗い場に彼が入ってきた。
長身のせいか、彼が横に立つと手元が少し陰った。
匂いがして、ついスーッと鼻で匂いをすいこんだ。
ああー、いい匂い、好みの香かもー。
「そういえば、俺たちタメなんだよ」
突然、そんなことを言われ、私は言葉に詰まった。
というか、とてもタメには見えなかった。
「え、そうなんですか!」
まだ初対面と言ってもいい、職場の上司に対して声を上げた。
「そうだよー、見えなかった?」
しゃべり方が、いちいちソフトだ。女っぽいんじゃない、女慣れしている話し方だ。
だからって悪印象はなかった。
イケメンとも違う系統で、とくにかく歩き方が格好良かった。特に後ろ姿。
しゅっとした背中に、腰回りが細い。
思わず、うわっと見惚れてしまう。
「見えなかったです。老けてるんじゃなくて、なんとなく」
自然と鼓動が高鳴って、しゃべりながら口ごもっていた。
彼は「雰囲気がってことでしょ」と苦笑いしながら、食洗機を掛け終えた食器を吹上げた。
なんだか彼とは話しにくい、必要以上のことも話さず、ハッキリ言ってどこかに行ってほしい。
「九時になったら上がっていいよ」
「あ、はい、あの、まだ洗い途中のものは」
「いいよ、やっとくから」
「あ、はい」
無言のまま、九時まで残り五分を切った。
洗い物しずらいよぉ、早く九時になれ!
すると手伝ってくれていた彼は洗い場を離れ、「おとうさん」とみんなから言われている店長と何か話し始めた。
話の内容からして、今日は特別客入りが悪いという話をしていた。
九時になり、洗い物は鍋や、揚げ物台など大物だけが手つかずに残った。
「すいません、お先に、お疲れさまでした」
もう早く帰ろう、私の中にはそれ一点のみだった。
「はーい、おつかれさま」
「お疲れさま、ありがとねぇ」
ありがとね、と言ってくれるのは店長だ。
六十歳を過ぎたぐらいの店長は、最初から最後まで温厚な方だった。
タイムカードを切って、私はそそくさとお店を後にした。
変に緊張する。
低すぎず高すぎない彼の声は、聞いていて心地いいぐらいだった。
もっと聞いていたいそんな感じの。
でも、話し辛い。
近寄りがたいオーラを放っていたし、今まで見てきた人たちとはまるで違う。
どこでどう生きてきたのか、彼の生い立ちまで気になるような、そんな異質的なオーラに異常に興味がわいた。
きっと、一目見たときから、彼に落ちていったのだ。