社宅ラプソディ
社宅敷地内の共有施設には、管理人室、百人以上を収容できる会議室、半分畳スペースの多目的室、簡単な調理ができる設備も整っている。
多目的室は、雨天時の子どもたちの遊び場にも利用されている。
社宅の妻たちで構成される 『信和会』 は、毎月集まりがあり会議室で行われることが多い。
親睦会のほかに、「簡単な料理教室」 「マナー講座」 「インテリア講座」 といった勉強会が開かれる月もある。
原則参加は自由、希望者はあらかじめ申し込むことになっているが、乳幼児のいる会員以外で欠席する者は少ない。
今月は特別な勉強会はもうけられておらず、軽食で親睦会と知らせがあった。
軽食のフォカッチャは三棟の川森棟長のお手製、今月の幹事は二棟の早水棟長、一棟の小泉棟長はふたりの補佐である。
いつもはだれかれと話しかける小泉棟長は補佐役に徹しているのか無言、かわって早水棟長はやけにハイテンションだ。
「フォカッチャには、オリーブオイルをつけてお召し上がりください」
必要最小限のことだけ伝えた川森棟長が席に着くと、早水棟長はイタリアンのうんちくを語りはじめた。
「フォカッチャはオリーブオイルと岩塩でいただくのが美味しんですよ。イタリアンレストランの味は、オリーブオイルで決まると言ってもいいくらい」
オリーブオイルの産地について語る早水棟長に、同席者は尊敬のまなざしを送り、早水棟長もまんざらではない様子だ。
今日の出席者は30名足らず、市の幼児検診日と児童館行事が重なったこともあり、小さい子はいない大人だけの回となっていた。
並んだ長テーブルに席順はなく、気の合った者同士隣り合って座っている。
明日香は五月と美浜と並んで座った。
「イタリアンと言えば、パスタはフォークとスプーンを用いて上品にいただきましょう。
左手にスプーンをもって、口に入るだけパスタをすくってスプーンにのせて、フォークを回して絡めて口に運びます。
フォークだけですくって大口を開けて食べるなんてもってのほか、お上品ではありませんのでご注意くださいね」
同席者にレクチャーする早水棟長の手は、見られることを意識してかなにげに気取っている。
一棟の新入居者、妊婦の大橋かなえが 「わたしもスプーンを使います。フォークだけだとオシャレに見えませんよね」 と言い、周りからも 「そうそう」 と声があがった。
明日香の隣に座る五月が 「センター早水さん、ウソを教えちゃだめでしょう」 とぼそっとつぶやいた。
「フォークをまわすのがいけないんですか?」
「スプーンは使わない方がいいの。日本ではスプーンを使う人もいるけれど、イタリアではスプーンを使うのは子どもだけ。お箸で食べた方が、よっぽどいいと思う」
「えっ、パスタをお箸で食べるんですか?」
思わず声を張り上げた明日香の声を聞きつけた早水棟長は、「お箸ではなく、スプーンですよ」 と睨みつけた。
「すみません……」 と小さく謝った明日香に、「ごめん、余計なことを言ったね」 と五月が謝り、それから顔を寄せて声を落とした。
「あはは……センター早水さんに睨まれちゃった」
「さっきの、友達とイタリア旅行したときの話なんだけど、友達はフォークが上手く使えなくて、持参した割りばしでパスタを食べたの。
そうしたら、周囲の客から拍手喝采よ。カッコいいっていわれたんだから」
「お箸でパスタ、確かにカッコいいですね」
「うん、スプーンを使う方が上品と思っている人より、ずっとカッコいいと思う」
小声でつぶやきながら、五月はきれいな所作でパスタを食べている。
「そのお友達って、五月さんの御主人でしょう。ふたりでイタリア旅行したんだ」
一緒に顔を寄せていた美浜に言われて、五月は 「ふふっ」 と笑った。
「お箸でパスタ」 の人は五月の夫に違いない。
海外赴任した人は違うなあと明日香が感心していると、早水棟長は次のマナーを披露した。
「リゾットはスプーンですよ。イタリアンはなんでもフォークだと思っている人もいるけれど、マナー違反ですから」
「あらら、また……」 と再びつぶやいた五月へ、明日香は 「また思い込みマナーですか?」 とささやいた。
「イタリアでリゾットを注文しても、フォークだけだされるのよ」
「フォークで食べるのが正式なんですね」
「正式かどうかはわからないけれど、スプーンは出てこないからフォークで食べるのが普通だと思う」
「へぇ、そうなんだ。息子たちにも教えよう。五月先生、お勉強させていただきます」
ドラマの決め台詞が気に入っている美浜が、ドラマの主人公をまねて五月へ恭しく頭を下げたあと、早水棟長はまたまた驚くことを口にした。