社宅ラプソディ
「部長のご家族が引っ越す予定の新築マンションに、欠陥工事が見つかったそうよ。
それでね、急遽部長の住まいを探すことになったのだけど、ほかの入居予定者の移転先を優先して探すようにと部長から指示があったらしいの」
欠陥が見つかったマンションには、小早川製作所の建材も使われていた。
使用された建材が直接的な原因ではないが、建設にかかわった会社として新築マンションに入居できず困っているのを見過ごすことはできない、自分たちの入居先の確保は後回しにしてくれということらしい。
とはいえ、部長一家の荷物は転居前の住宅から送り出されている。
本当なら今日が引っ越し予定だったが、移転先に入居できないため引っ越し荷物を載せたトラックは会社に留め置き、部長の家族は博多市内に待機となった。
いつまでも荷物をトラックに乗せたままにもいかず、『梅ケ谷社宅』 に空き部屋があると部長に伝えたところ、そちらに入居したいとの返事だった。
福岡本社総務課は、『梅ケ谷社宅』 で妻が棟長を務める課長たちに打診した。
引っ越し先のマンションを想定した荷物は多く、『梅ケ谷社宅』 の一室には入りきれない。
二部屋分用意したいとの総務課の提案に、部長からひとつは一階の部屋をとの希望が出たのは、荷物にピアノがあったためである。
社宅の床はお世辞にも頑丈とは言えない、一階の部屋なら補強も可能である。
それでは、一階の隣り合った二部屋がいいだろうということになった。
「ところが、いま社宅のどの棟にも一階で隣り合った部屋の空きはないの。そこで、川森課長が自分が引っ越しますと手をあげたそうよ」
奥様には事後報告だったらしいのと、五月は肩をすくめた。
でも、川森さんがそこにいても、ご主人と同じように 「私どもが二階に移ります」 と言ったでしょうねと続けた。
明日香もそうだと思った。
部長の危機を救うために動き、部長の目に留まりたいと課長たちは思っているはずである。
そして、自分たちの社宅棟に部長一家を迎えたいと考えるだろう。
しかし、一棟の小泉棟長の部屋は二階、二棟の早水棟長は四階住まい、自分たちの棟に部長一家を招くには、一階の誰かに引っ越しを頼まなくてはならない。
一階が自宅の川森課長がすかさず手を挙げたのを、他の課長たちは悔しい思いで見ていたに違いない。
「この時期の転勤は珍しいですね」
「私も詳しいことはわからないけれど、福岡本社に病気療養中の部長がいらっしゃるから、有栖川(ありすがわ)部長はその方の代わりかもね」
有栖川さん……なんて雅な名前だろう、お公家さんのような顔立ちかもしれない、などとのんきなことを考えながら明日香はデッキブラシを前後に動かした。
奥様の名前が素敵なのよ、と五月は口元を抑えた。
お姫様風? 宝塚風? 明日香は予想を口にした。
「有栖川ありすさん」
「うん、近い感じ。乙女の乙に羽とかいて、おとわ。有栖川乙羽さん」
「ありすがわ おとわ……さん。古風ですね。でもすてき」
「でしょう」
可愛らしい少女のような 『有栖川乙羽』 を想像しながら、ふたりは掃除に励んだ。
そして、『梅ケ谷小学校』 運動会当日に川森課長一家は201号室へ転居した。
社宅に部長一家が到着したのは運動会の翌日、昨日の晴天から一転、朝から小雨模様だった。
50歳を少し過ぎた有栖川部長は、長身で細身の英国紳士然とした佇まいで、引っ越しの手伝いにやってきた部下たちに丁寧に頭を下げる好人物だ。
部長夫人の乙羽は、その年代の人特有のふっくらとした体つきでありながら、それが優雅な落ち着きを醸し出し、透き通るような肌と美しい手の持ち主だった。
「有栖川でございます。みなさま、お手数をおかけいたします」
貴婦人のようだと明日香は思った。