社宅ラプソディ
「私どものことはお気になさらず、川森さんはご自分のお部屋のお片づけをなさってくださいね」
「お気遣いありがとうございます。我が家はいつでも片づけられますので」
生真面目な川森課長らしい言葉に、有栖川部長は 「こちらは手が足りています。大丈夫ですよ」 と言うにとどめたが、
「川森さんも急なお引越しで大変だったはずですよ。私どもは大勢の方のお手伝いをいただいております。おふたりのお気持ちだけいただきます」
なおも手伝う姿勢を見せる川森課長夫婦へ、乙羽は柔らかい言葉で丁寧に断りを入れた。
そこまで言われて残るわけにもいかず、残念な思いを抱えながら自室に引き上げた川森課長夫妻とは対照的に、他の課長たちは夫婦そろって張り切っていた。
小泉棟長と早水棟長は、朝一番にやってきて玄関前の掃除をして部長一家を迎える気合の入れようで、夫の課長たちも、部下に指示を与えながら率先して動いている。
川森課長に差をつけようと必死になっているのは、誰の目にも明らかだった。
部長一家の引越しは、当初の予定では荷造りから収納まですべてお任せの引越しパックだったが、引っ越しそのものが二日間延期になり、引っ越し業者のスタッフのやりくりがつかなくなった。
そこで、各課長の部下が大勢応援にやってきたのだが、家財道具の運び入れのあとは女性の手が欲しい。
川森棟長の呼びかけで集まった、川崎棟を中心とした 『信和会』 のメンバー数名の働きは、有栖川部長夫人を大層喜ばせた。
そして、夕方には川森棟長お手製の豪華オードブルが届き、部長夫妻は行き届いたもてなしに感激したのだった。
「明日香、お疲れさま」
「うん、疲れた……グリさんも休みがなくて大変だったね」
「俺はそうでもないよ。明日香は金曜日から三日連続の手伝いだったもんな」
引っ越しの手伝いが終わったあと、ふたりが出かけたのは 『梅ケ谷社宅』 から車で20分ほど走った郊外のレストランだった。
欧風料理と書かれた店頭の看板を目にした明日香は 「欧風料理ってなんだろう、イタリアンではなさそうだけど……」 美味しいのだろうかと一抹の不安を抱えながら入ったが、料理は期待を裏切る美味しさだった。
「私、頑張ったんだから。自分でもよく働いたと思う。自分ちも、あれくらい熱心に掃除したらきれいになるかもね」
「ウチはきれいだよ。いつもありがとう」
「なによ、急に褒めなくたって」
「いやいや、ホントだって。川森課長が、ベランダがピカピカになってたって喜んでた。明日香が磨いてくれたんだってね」
有栖川部長からも、佐東君の奥さんには大変お世話になりましたと言われたと、明日香の働きで面目が立った亜久里は上機嫌だった。
金曜日の午後から日曜日の夕方まで掃除と引っ越しの手伝いに追われ、労働と気遣いで心身ともに疲れ切った妻を美味しい食事と感謝の言葉で慰労する、亜久里はそれができる夫である。
亜久里は営業職のため出張が多く、福岡本社に転勤後すぐから出張続きで、家の片付けをほとんど一人でしてきた明日香がストレスを抱えていたのもわかっていたのだろう。
今夜の外食は罪滅ぼしの意味もあるのだろうと思っていたら、「遅くなったけど、誕生日おめでとう」 とプレゼントがでてきて、明日香のテンションは一気に上がった。
30歳の誕生日は、亜久里が翌日に海外出張を控えていたため自宅でささやかに祝い、プレゼントはあとでと言われたが、もらえるのはずっとあとだろうと思っていた。
亜久里から贈られたのは、出張先で求めたのだろうタイシルクの大判のスカーフだった。
夫の手前喜んで受け取ったが、大きなスカーフをどのように身につけてよいのか正直わからない。
それでも、夫からのプレゼントは嬉しい。
「川森課長も奥さんのスカーフと、娘さんにはバッグを買ったんだけど、課長が女の子用の可愛いバッグを選ぶときの顔が真剣でさ」
「パパの顔になるんだね。グリさん、スカーフを選ぶとき恥ずかしくなかった?」
「あぁ、うん、少し……そういえば、部長の奥さんのピアノ、運ぶの大変だった。専門の業者はピアノをふたりで運ぶんだってね」
恥ずかしさを隠すように唐突に話題をかえた亜久里を可笑しく思いながら、明日香も話題にのった。