社宅ラプソディ
「運ぶコツがあるんでしょう? 結局、ピアノは管理棟に置いたんだよね」
「多目的室に置いた。床の補強もしたから、部屋に置けないこともなかったんだけど、部長の奥さんが夜勤者の家族に配慮したらしい」
交代勤務で夜勤明けの人々がいる社宅棟では、昼間も静かな環境が求められる。
ピアノの音が睡眠の妨げになるのではと心配した乙羽から、居住棟から離れた管理棟に預かってもらえないかと言われ、男たち数人がかりで運び込んだ。
「誰でも弾いていいと言われたけど、ピアノを弾く人っているのかな」
「子どもたちは興味があるんじゃない?」
「そうだね。おっ、このジャガイモ、柔らかいね」
ランチに寄ったことがあるという亜久里は、その時食べた煮込み料理が美味しかったそうで、今夜も注文している。
「この店はジャガイモ料理が美味いよ。ポーランド料理はジャガイモが主食だって」
「スープも美味しい」
「メインの肉も期待していいよ」
明日香にも勧めるが、疲れた体は肉料理よりさっぱりした味を欲していた。
それでも、亜久里の勧める煮込み料理を食べて、デザートまでしっかりお腹におさめた。
献立に悩まず、作らず、片づけもいらない、それだけで明日香は大満足だ。
「有栖川部長さんの転勤は、病気の方の代わり?」
五月から聞いたというと、亜久里は深刻な顔でうなずいた。
「回復は難しいらしい、今月いっぱいで退職だって。それで、有栖川部長が福岡本社に来ることになった。
部長、都内に家を建てたばかりだったらしいよ」
「えーっ、かわいそう」
「それでさ、奥さんのために、社宅費の差額を出してでもピアノの置けるマンションを希望したらしい」
部長職には広い社宅が用意されるが、ピアノが置ける物件は限られる。
運良く条件に見合う賃貸の新築マンションが見つかり借り上げ社宅となる予定だったが、欠陥建築が明るみに出て予定が狂った。
暫定的に 『梅ケ谷社宅』 に引っ越すことになったが、部長職では異例である。
「東京の新築のお宅はどうなったの?」
「社会人の娘さんが残っているらしいよ」
「そうなんだ」
うちの会社は家を建てると転勤になるらしいよと、亜久里は人ごとのように口にしたが、自分たちもいつか同じ目に合うかもしれないのだ。
いつか自分たちの家を持つために、『梅ケ谷社宅』 でお金を貯めようねと言うと、亜久里はその時は真剣な顔でうなずいた。
交際中に亜久里が東京本社から名古屋本社に転勤になり、二年の遠距離恋愛を経て結婚した半年後に福岡本社に転勤になった。
この先も、仕事を続ける限り転勤は避けられない。
持ち家があっても辞令に従って地方へ行かなくてはいけないのだ。
「楽しまなくちゃね」
「なにを?」
「こっちでしかできないことを見つけて楽しみたいと思ったの。それから、社宅のおつきあいも」
「あぁ、そういうこと。うん、そうだね。付き合いとか、いろいろ大変そうだけど」
「ふふっ、いろいろあるよ。聞きたい?」
なんか怖そうだね、と引き気味の亜久里へ、最近の出来事を語って聞かせた。
亜久里が特に関心を示して面白がったのは小泉棟長の 「三陸の味事件」 だった。
「お中元とかお歳暮とか、どうしたらいいかな。名古屋のときは結婚式のあとだったから贈ったけど」
「今度からやらなくていいよ。うちの会社、そういうの禁止だから」
「部長さんにも?」
「うん」
「わかった」
会社で禁止されているなら気も楽だ、面倒なことから解放されたと思った。
ご近所や親しい人へのおすそ分けくらいなら問題ないだろうと、深く考えることはなかった。
翌日、社宅の妻たちが大騒ぎするまでは……
明日香がそれを知ったのは、五月からのメールだった。
『昨日はお疲れさま。川森さんのオードブルが問題になってるけど、知ってる?』
有栖川部長宅へ届けた川森棟長お手製のオードブルは、部長への進物ではないかと小泉棟長が大騒ぎしているという。
『三陸の味』 の仕返しかもね……五月は続けて送ってきた。
引っ越しのあと川森棟長の差し入れに感激して元気をもらった者としては、この件を見過ごすわけにはいかない。
先輩に意見を求めるために、明日香は美浜のところへ走った。