社宅ラプソディ
8.通勤バスと幼稚園バス
『梅ケ谷社宅』 から工業団地にある会社まで約2キロ、近距離であるという理由から原則車通勤は認められていない。
その代わり、会社と社宅を行き来するバスが通勤時間帯に運行されている。
決まった時刻に乗らなければならない不自由さはあるが、短時間で行き来できるため交代勤務者を中心に利用者は多い。
自転車通勤もいるが、雨天時はバスを利用、または、妻の送迎となる。
バイク通勤は少数派である。
そこに、今までほとんどいなかった徒歩通勤者が登場した。
先ごろ社宅に越してきた有栖川部長である。
有栖川部長の出勤時刻は誰よりも早い。
日勤者の始業時刻は8時、有栖川部長は6時半過ぎに自宅をでて徒歩で20分、7時には会社に到着して仕事をはじめる。
着任して一ヵ月、ほぼ毎日歩く姿が見られた。
「部長が早いから、課長たちも早く出社するようになった。俺が会社についたとき、課長たちは全員机に座ってるよ。
部長より遅い出社は気になるんだろうな。出世に響くのかな」
課長も大変だよなと人ごとのような亜久里は、朝7時半すぎに家を出る。
明日香が買い物用に使うはずだった電動自転車は、いまは亜久里の通勤自転車になっている。
たいした力も使わず会社までたどりつく自転車を、亜久里はたいそう気に入っていた。
「グリさんも早く出勤したほうがいいんじゃないの?」
「俺は気にしない、今まで通りでいいよ。うちの課長も気にするなと言ってくれてるしね」
「川森課長も早く出勤されるのでしょう?」
「奥さんが娘さんを駅まで送るついでに、会社まで送ってもらうんだって言ってた」
川森課長の長女は福岡市内の私立中学に通っており、電車通学のため朝が早い。
自分は家庭の都合で早く出社するのだから、部下は気にするなということである。
「だけど、田中さんが部長と歩き始めたから、気になる人もいるんじゃないかな」
このごろ徒歩通勤をはじめた田中は二棟早見棟の住人で、財務の事務方である。
田中さんは、有栖川部長に気に入られるために歩いているわけじゃないと思うけどねという亜久里にうなずきながら、明日香は田中の妻、幸子の顔がうかんで眉を寄せた。
「田中さんがどうかした?」
「うん、ちょっとね」
「ちょっとって、なんだよ。気になるだろう」
「幸子さん、自分と人を比べたり、羨ましがったりするの。東京の大学がいいとか、明日香さんのご主人の名前が羨ましいとか」
「俺の名前? なんだよそれ。わけわからん」
首を傾げたあと、朝食のパンを頬張りコーヒーを流し込む亜久里の顔に 「そうだよね。わかんないよね」 と返しながら、明日香は乙羽の懇親会のときの五月との会話を思い出した。
「乙羽さん、私が学んだマナーとは少し違うようですねって、さすがですね。私だったら、それ、間違ってますって言っちゃいそう」
「ホント、相手を否定せず、肯定もしない。お嬢様言葉の見本みたい。乙羽さん、きっとお嬢様育ちだと思う」
お嬢さま言葉ってなんですかとの明日香の質問に、五月は 「はっきり言わないことかな。オブラートに包むようにね」 と言い例を挙げた。
騒がしい人はお元気な方、ケチな人は倹約家ですねなどと言い換えるのがお嬢様、乙羽はそれができる人であると。
しばらく歓迎会の席から外れていた早水棟長が、何ごともなかったような顔で戻ったあと、乙羽が東京出身とわかると、うちの息子は東京の大学に通っておりますと子どもの話題を持ち出した。
「まぁ、そうですか。うちの息子も大学生ですよ。やっと大学生になりました。まだまだ先がありますけれど」
大学の話に興味を持った乙羽に気を良くしたのか、そのときカップの片付けにやってきた明日香の顔を見ながら、
「明日香さんも東京の女子大でしたね」
そう話を添えた早水棟長は息子の話題に触れて欲しかったのだろうが、「私も女子大出身ですよ」 と乙羽が言い出したため、話は思わぬ方へ転んでいった。