社宅ラプソディ


明日香はそれには触れず源太の頑張りを褒めて、「そうですね、すごいですね」 と返事をしてゴミステーション前を去るつもりでいたのに、五十鈴はなおも明日香を引き留めた。


「うちの子たちも五月さんに勉強を教えてもらえないかなって、みんなで話してたの。明日香さん、どうかな」


「えっ……どうでしょう。五月さんに聞いた方が早くないですか?」


「そうなんだけど、小泉さんが先に頼んだみたいだから、わたしたち、頼みにくくて」


小泉棟長は、中学受験が噂される三男のための家庭教師を五月に頼んだらしいという。

五月と仲の良い明日香に、ほかの子にも教えてくれるよう話をしてもらえないだろうかと、そんな頼みだった。


「五月さんに聞くだけ聞いてみます。力になれないかもしれませんけど、それでいいですか」


「うん、おねがい。国際なんとかって難しい大学を出てるんだってね」


「国際教養大学と聞きましたけど」


「そうそう、それ。早水さんとこの息子さんの大学より難しいって聞いたけど」


そんな話をしている後ろを、ゴミ出しにきた幸子が 「おはようございます」 と声だけ掛けて通り過ぎた。

幸子が立ち去るのを待っていたように井戸端会議のひとりが口を開き、それからつぎつぎと田中家の話が持ち上がる。


「田中さんとこ、毎日お稽古事だって。英語とバレエとピアノとスイミング。紫苑ちゃん、泣きながらピアノの練習をしてるらしいよ」


「練習って、電子ピアノでしょう? 電子ピアノでピアニストになれるわけないじゃない」


「教養のつもりじゃないの?」


「ママが高卒だから、必死なんでしょう」


「それを言っちゃだめじゃない。幸子さん、高卒を気にしてるんだから」


おしゃべり好きな五十鈴から幸子をかばう発言があり、それへ反発する声があがる。

井戸端会議はいよいよ白熱してきた。


「大学に行きたかったのに、親に反対されたんでしょう? その話、幸子さんから何度も聞いた。

弟がふたりいるから国公立以外の大学に行けなかったって言うけど、国公立大に落ちたから大学に行けなかったんじゃない。

実力がなかっただけなのに、なんで兄弟のせいにするのよ。高卒のどこがいけないのよ」


「そうよ。わたしだって高卒だけど、失礼よ」


「幸子さんって上から見てるよね」


明日香は早くこの話の輪から抜け出したいと思うのに、そのタイミングがつかめない。

以前聞いた話で、幸子は女子大に行きたかったと言っていた。

行きたい大学がありながら、家庭の事情で進学は叶わなかったということだったのか。

幸子が本当に行きたかったのは、国公立大学ではなく東京の私立の女子大学であり、受験のチャンスもなかったのだとしたら、明日香をうらやむ気持ちがわからなくもない。

自分が叶えられなかった夢を子どもに託し、子どものためにできる限りのことをやろうとする幸子を非難するのは間違っている。

そう思うけれど、この場にいる人々に 「幸子さんは一生懸命なだけです」 と言う勇気はない。


「高卒でも、私らとは違って本社採用の旦那さんだから、自分は別格だって思ってるんでしょう」


「幸子さん、すっごい負けず嫌いだから」


「そうそう。名前もさ、子どもに紫苑と梨花とかつけちゃって、がんばり過ぎでしょう」


「旦那さんの名前は実だよ。このまえテレビで見たけど、『田中実』 は日本で一番多い名前なんだって。田中実と田中幸子って平凡だから、その反動かもね」


エスカレートする話は聞くに堪えない。

明日香は五十鈴たちの話には一切加わらず、聞きたくもない噂話を聞きながら修行のような時間を過ごしていた。


「おはようございます」


「わぁ、五月さん、待ってたのよ。ねぇ、お願いがあるの」


「はい?」


明日香に五月の説得を頼みたいと言っていた五十鈴は、五月を見つけると喜び勇んで駆け寄った。

これで自分の役目はなくなった、このすきにここから抜け出そう。

五月に向かって 「おはようございます。おさきに」 と手を振って、明日香はゴミステーションを足早に立ち去った。

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