社宅ラプソディ
それからも二度、乙羽の口から 「東京大学」 と出てきたが、早水棟長が乙羽の言い間違いを訂正することもなくお茶会は終了した。
片付けを終え、会議室を出て五月と並んで歩きながら、明日香は気になることを口にした。
「さっき、乙羽さんから東京大学って聞こえましたけど、私の聞き間違いかな」
「私にも東京大学と聞こえたけど」
「そうですよね。乙羽さん、東京大学って言いましたね。センターさん、どうして違いますって言わなかったのかな」
「乙羽さんは東京の大学と言ったつもりが、東京大学になってしまった。センターさんは、部長の奥様の言葉を訂正するのは失礼だと思ったから……というのが一つ目の推理」
推理と聞いて、明日香はワクワクしてきた。
「二つ目の推理は?」
「乙羽さんが、早水大輝君は東京大学に合格したと思い込んでいるから、あえて訂正しなかった」
「えっ、それでいいんですか? センターさんの息子さん、東京大学ではなくて中央大学ですよ」
「中央大学も東京の大学でしょう。乙羽さんは息子さんが地方大学で残念な感じだったから、東京の大学が羨ましいのは本当だと思うけど」
「でも……」
二つ目の推理だけれど、と前置きして五月は話をつづけた。
「もしも、センターさんが乙羽さんの思い込みをわかっていながら訂正しなかったのだとしたら、乙羽さんより優位に立ちたい気持ちもあるのだと思う」
「乙羽さんの勘違いを利用したってことですか。センターさんの息子さんは、本当は東京大学ではないのに、そう思わせておきたいから?」
「母親って、変なところで見栄を張るの。うちの母もそうだった。知り合いに、私の大学はどこかと聞かれても、国際関係の学部ですとしか言わなかったのに、結婚して海外赴任したことは言いたがるのよ。二度も行ったんですよって、自慢しているみたい。そんなの自慢されてもね」
海外赴任は夫の仕事であって、私の実力ではないのにおかしいでしょうと、五月は苦笑いした。
子どもの進学先をめぐって優越感をもったり卑屈になったり、母親の心理は厄介だと思うが、いつか自分もそういう思いをするのだろうかと明日香は漠然と思った。
「有栖川大樹君、どこの大学でしょうね」
「私の出身校みたいに、誰も名前も知らない地方の公立大学かもね」
「えーっ、五月さんの大学は、地方大学でも知る人ぞ知る超難関大学じゃないですか」
「知ってる人はそう言ってくれるけれど、わたしも親にも言われたのよ、そんな名前も知らない大学に行くのかって」
「ご両親を説得して進学したんですね」
「うぅん、親と大喧嘩した。父は許してくれたけれど、母はいまだに不満みたい。有名な大学だったらよかったんでしょうけど。
大学の名前を言っても誰にもわかってもらえないのが、母には不満だったのよ」
「でも、誰でも入れる大学じゃありませんよ。隠れた名門ですって、お母様も自慢したらよかったのに」
「ふっ、そうね……親には親の理想やこだわりがあるから、母の気持ちもいまはなんとなくわかるような気がする。私も18年後、そんな思いをするのかな」
「18年後って、えっ? ええっ」
五月は明日香の反応を楽しむような目をしていたが、満足そうに微笑んだ。
「昨日、病院に行ったの、7週目だって。大好きだったこしあんが苦手になったの。これもつわりの症状かな」
まさか結婚9年目にこうなるとは思わなかったわと続く五月の突然の告白に、明日香は驚きで二歩後ろに下がった。