社宅ラプソディ


自転車に乗った青年が社宅を訪れたのは、8月の第一週、『梅ケ谷学習クラブ』 の学習日だった。

五月を迎えに行く途中、二棟早見棟の前で 「すみません」 と声をかけられた明日香は、入居者の部屋がわからないという彼へ管理人室に行くことを勧めた。

うかつに部屋番号を教えるのは剣呑だと考えたためだが、「ありがとうございます」 と礼儀正しく礼を伝えた青年に怪しい雰囲気はなかった。


「好青年ってカンジでしたね。大学生くらいかな」


「早水君の友達かもね。もしそうだったら、学習クラブを手伝ってくれないかな」


朝から体調がすぐれないという五月と並んで歩きながら、今日は自習にしましょうかと明日香は提案したが、そうもいかないでしょうと辛そうな顔で返事があった。

五月は美浜の息子たちの家庭教師をしていたが、体調を理由に個別指導は断り、かわりに 『梅ケ谷学習クラブ』 に参加してもらうことになった。

せっかくやる気になった美浜の息子のためにも、ここでやめたくないということらしい。

管理棟の前まで来て、無理はしないでくださいねと妊娠初期の五月に念を押して玄関扉を開けた。


「こんにちは、『学習クラブ』 です。会議室をお借りします」


管理室に声を掛けて、そのまま会議室へ行こうとした明日香たちを管理人の溝口が呼び止めた。


「部長の奥さんが何時ごろ帰ってくるか、聞いてませんかね。川森さんの奥さんと車で出かけたのは見かけたんだけど」


「川森課長の奥様とお買い物に出かけると聞きましたけど、帰りの時間はわかりません」


今朝、川森棟長の車で出かけるふたりに会った明日香は、そこで少し立ち話をして行先を聞いていた。

溝口のうしろからさきほどの青年が姿を見せて、愛想のよい顔で明日香に向かって小さく頭を下げた。


「有栖川部長の息子さんが来たのに、奥さんは留守なんだよね。買い物だったら、そんなに時間はかからないでしょうね」


乙羽の息子は、母親と連絡が取れずに困っていた。

乙羽が電波の届かないところにいるか、携帯を忘れて出かけたか、いずれかだろう。


「どうでしょう、天神まで出かけるそうですけど」


天神は福岡市の中心街、百貨店などが並ぶ商業地域である。

にぎやかな場所にいたら、携帯を持っていても着信に気がつかない場合もある。


「天神か……それじゃ、帰りは夕方かな、どうする、ここで待つ?」


管理人の問いかけに青年は考える顔をした。

そのとき、明日香の横から五月が身を乗り出した。


「有栖川大樹君ですか」


「はい、そうです」


「お母様が戻られるまで、ここで子どもたちに勉強を教える手伝いをしませんか」


「あっ、いいですよ」


有栖川大樹はためらうことなく、五月の欲しい返事をよこした。

新しい先生の登場に子どもたちが神妙にしていたのは最初だけ、あとはいつもの通りすぐに打ちとけて、なれなれしく語り掛けるようになった。

明日香も五月も大樹が通う大学は聞いていない、聞いてはいけない気がした。

ところが、子どもは有栖川大樹に向かって 「先生はどこの大学?」 などと大人が聞けないことを遠慮なく口にする。

今日の指導は大学生二人に任せて、明日香と五月が聞き耳を立てていると、「福岡の大学だよ」 と大樹の返事があった。


「乙羽さんの息子さん、福岡の大学だったんですね。近くにいるのに隠したかったのかな」


「さぁ、どうだろう」


「でも、気になりません? 彼の大学、どこだと思います?」


「福岡県内の国公立大は……たくさんあるわね」


検索結果を示す五月の携帯画面には、大学名がずらっと並ぶ。

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