社宅ラプソディ
「わぁ……」
「うーん……」
亜久里も明日香も、それ以上の言葉が出ない。
すべて和室、6畳、4畳半が二間と、一応三部屋はあるものの……狭い、狭すぎる、どこにどう家具を置けばよいのだろう、それよりすべての荷物が入るだろうか。
ふたりで大きなため息をついた。
「はぁ……まずは挨拶回りに行ってこようか」
「そうだね。あとで考えよう」
それから 『川崎棟』 の各部屋へ、夫婦そろって挨拶に回った。
一番先に棟長宅を訪ねると、休日で家にいた夫の川森課長が出てきた。
妻は今出かけているので、あとで連絡させますと言われて、出直しますと伝えて 『川崎棟』 の各部屋に出向いた。
10数軒ほど訪ねて、「はじめまして、よろしくお願いいたします、引っ越しでご迷惑をおかけします」 と頭を下げ続けた。
階段をのぼったりおりたり、フラフラになりながら、つづいて 『小野棟』 『早見棟』 の棟長宅へ行くと、どちらも夫人が出てきた。
「よろしくお願いします」 のあとのお辞儀を、今まで以上に丁寧にして、引っ越しの挨拶の品として用意してきたハイグレードのフェイスタオル、それに、老舗菓子店の小豆菓子を添えて渡した。
引っ越し前に挨拶回りに行った方が良いとアドバイスをくれたのは、前の社宅の隣に住んでいた先輩主婦の石田彩子だった。
荷物運びに社宅玄関や階段といった共有スペースを使うため、居住者に迷惑が掛かるのは避けられない。
引っ越しの挨拶とともに 「ご迷惑御おかけします」 とひとこと添えておけば、相手も気持ちよく受け入れてくれる。
それには、挨拶の品選びも重要になってくるのだと教えてくれた。
彩子は夫の転勤で全国を回っているため 「社宅の引越しの心得」 に詳しかった。
「ほかの人と差をつけるチャンスだから、挨拶の品は、ワンランク上の良いものを選んだ方がいいわよ。
社宅の自治会長とか管理人さんとか、大事な方への挨拶には老舗の菓子を添えて。季節限定の菓子は特に人気で手に入りにくいの。
そういうのって、奥様方に気に入られて、こちらの印象も良くなるの。明日香ちゃん、頑張って」
彩子のアドバイス通り、ふたりの棟長は、「まぁ、両口屋是清の季節限定のお菓子ですね。嬉しいわ。ご丁寧にありがとうございます」 と目を細めた。
管理人室にも改めて挨拶に行って帰ってくると、ちょうど引っ越し業者のトラックがやってきた。
「どれどれ、俺も部屋を見せてもらおうかな」
そういって入ってきたのはトラックのドライバーだ。
彼は引っ越し前の社宅の荷出しにも立ち会っているので、前の住まいの広さを知っている。
「うわぁ、狭いね。俺もいろんなところを見てきたけど、ここが一番狭いわ。
畳、ちっちゃいねぇ。団地サイズってやつかな」
「狭いですね。ホント、あはは、荷物、入るかな」
「奥さん、このまま引き返しますか? いまなら間に合うよ」
「あはは、そうしようかな」
ドライバーと明日香のやり取りを、亜久里は苦笑いで聞いていたが、パンッと手を打って声をあげた。
「さて、はじめますか」
狭小住宅への引越しがはじまった。
時間通りにやってきた引っ越し業者の人々の手により、手際よく荷物が運び込まれ、家具や家電の設置、キッチン道具の収納、食器棚の食器まできれいに並べてくれるサービスは、とにかく行き届いている。
亜久里の指示に従って、引っ越しは順調に進んでいった。
新居に初めての訪問者があったのは、亜久里が管理人の溝口に教えてもらったコンビニから買ってきたおにぎりとお茶だけの簡単な昼食を済ませて、午後の作業を再開して間もなくのことだった。
「こんにちは、お邪魔いたします。棟長の川森でございます」
ベランダの物置の段取りで手が離せない亜久里に促されて、明日香がエプロンの裾をなびかせながら玄関に出ていくと、そこには笑みをたたえながらも引き締まった顔の女性が立っていた。
川崎棟棟長、川森今日子との出会いだった。