社宅ラプソディ


地方の社宅暮らしは思いのほか不便で、買い物先は遠く、自転車、もしくは車で出かけなければならない。

明日香が買い物用に使うはずだった自転車で亜久里が通勤をはじめたため、思いがけず車が自由に使えるようになった。

けれど、長年ペーパードライバーの明日香は車の運転に消極的で、これまで買い物は休日に亜久里と出かけるか、五月や美浜の車に同乗させてもらっていた。

ところが、美浜は近く新居への引越しが決まっており、五月は妊娠中で体調のすぐれないときがあり、ふたりを頼ることはできなくなった。

いよいよ運転せざるを得なくなり、明日香は運転の練習をはじめたのだった。

社宅周辺の道は広く行きかう車もそれほど多くはない、運転の練習には最適である。

とはいえ、亜久里の好みで選んだステーションワゴンは車高も車幅もあり、運転歴の浅い明日香にはハードルが高い。

練習をはじめた当初は恐るおそるハンドルを握っていたが、休日のたびに練習に付き添う亜久里の熱心な指導のおかげで、明日香はまもなくペーパードライバーを返上した。

しかし、夫以外の誰かを乗せて走るのはいまだ不安である。

それなのに、今日は後部座席にふたりも乗せている。

いつも以上にハンドルを握る手に力を込めながら、明日香は後ろから聞こえてくる会話に耳を澄ませた。

車に乗り込んでから、しのぶと乙羽は宝塚の話題に花が咲いている。


「舞台の余韻に浸りながら、つい熱心にパンフレットをみてしまって、お恥ずかしい」


「いいえ、わたくしこそ、佐東さんのパンフレットに ”まあこさん” のお顔が見えて、思わず声をかけてしまいました。いまになり、恥ずかしいことをしたと思いますの」


「いえいえ、有栖川さんが ”まあこさんの公演にお出かけでしたか” とおっしゃったので、もう嬉しくて、年甲斐もなくはしゃいでしまいました。こちらこそ、恥ずかしいですわ」


「こちらで ”まあこさん” のファンの方にお会いできるなんて、こんな嬉しいことはありません。私、まあこさんが研2の新人公演から注目していたんですよ」


「有栖川さんは、まあこさんが大抜擢された新人公演をご覧になったんですか。私は準トップになってからですから、まだ日の浅いファンですけれど、公演にはできるだけ足を運んでおります」


「まぁ、うらやましい……」


いいえ……こちらこそ……恥ずかしいわ……と互いに言い合いながら会話が進むのは、この年代の女性たちにはよくあること。

遠慮しているようで、実はそうでもない。

自分を語ることに熱心なふたりの会話を、明日香は面白く聞いていた。

ちなみに 『まあこさん』 とは、宝塚歌劇団宙組トップスターの月風星良 (つきかぜ せいら) の愛称である。

歌劇団員は団員ではなく生徒と呼ばれ、ファンはお気に入りの生徒を愛称で呼ぶ。


「息子の受験が続きましたので、舞台から遠ざかっておりましたけれど、パンフレットのまあこさんを拝見して、とうとうトップになったのねと感激してしまって」


「お声をかけてくださった方が、息子夫婦と同じ社宅にいらっしゃっるなんて、本当に、まぁ、驚いてしまいました」


ふたりの話を整理すると、こういうことである。

しのぶは 『博多座』 で行われた宝塚宙組の昼公演が終わったあと、明日香たちがいる 『梅ケ谷社宅』 へ行くために電車に乗った。

電車の中で公演のパンフレットを見ていた佐東しのぶは、表紙に写るトップスターのファンであった有栖川乙羽に声をかけられた。

互いに宝塚ファンということで話が弾んだふたりは、降りる駅まで同じ、さらには行先まで同じ、重なる偶然に歓喜した。

そこへ明日香がしのぶを迎えに来た。

当然 「乙羽さんもどうぞ」 となり、慣れないながらもふたりを乗せて社宅を目指すことになったのである。

『まあこさんの研2の新人公演』 とは、月風星良が歌劇団に入団二年目に出演した新人公演こと。

異例の大抜擢で、早くから未来のトップスターとして期待されていた生徒である……

と、しのぶと乙羽の話の詳細を明日香が理解したのは、社宅の佐東宅に乙羽も招いて三人でテーブルを囲んだ席でのこと。

昨日から掃除に励み、茶菓の準備もできている。

亜久里の帰りを待つつもりか、早めに腰を上げるのかわからないが、しのぶの滞在時間はそう長くはないだろうと思っていた。

もっとも、明日香としのぶの関係は良好で、それほど気の張ることはないのだが、思いがけず姑と上司の妻を自宅に招き入れたため、運転とは異なる緊張を感じることになった。

そんな明日香の思いをよそに、ふたりの話はつきることなくどんどん広がっていった。


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本文中の歌劇団スターは架空の人物です
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