社宅ラプソディ
乙羽が 「明日香さん」 と呼ぶのを聞いたしのぶは、私も名前で呼んでくださいと言い出して 「乙羽さん、しのぶさん」 と呼び合うようになった。
「まあこさんのレッドバトラー、素晴らしいでしょうね。東京公演はいつかしら」
「乙羽さん、東京公演、ご一緒にいかがですか」
埼玉の佐東家から乙羽の東京の自宅まで、電車で30分の距離とわかり、「あらあら、まぁまぁ」 と感嘆詞が飛びかう。
では、東京公演はご一緒にと、さっそく約束が出来上がった。
しのぶがタブレットを取り出して公演スケジュールを確認、候補日を表示すると、乙羽はしのぶの手際の良さに 「しのぶさん、すごいわ」 と感激する。
「このアプリ、便利ですよ。乙羽さん、オススメです」
「私にできるかしら……」
ここをこうして、ここをタップしてと、しのぶの丁寧な説明に乙羽も熱心にうなずく。
明日香があらたにコーヒーを淹れて運んでくるあいだに、乙羽は友の会の会員登録を済ませ、ネットサークルの会員になり、さらには、宝塚以外の舞台も観に行きましょうと話がまとまっていた。
11月には二人で劇団四季の公演を観に行くらしい、それも、東京と福岡の両方である。
乙羽は楽しみで仕方がないと繰り返し、その顔は上気している。
「久しぶりにワクワクしてまいりました。息子の受験が終わるまで、趣味を楽しむ余裕もありませんでした。なにしろ、二浪でしたから、三年続けての受験でしたので」
「まぁ、それは大変でいらっしゃいましたね。我が家も似たような経験をいたしました。長男も次男も現役合格はならず、ふたりとも一浪です。
ふたつ違いですから受験が4年続きました」
「まぁ、4年も……しのぶさんも大変でいらっしゃいましたね」
「浪人はしましたが、社会人になり、こうして家庭を持って安心しております」
「そうですね。息子はまだまだこれからですけれど、長女は社会人になりました」
家を建て替えたと同時に転勤になり、長女が留守宅を守っているのだと乙羽が家の事情を語ると、しのぶも35歳になる長女がしのぶの留守中は父親の世話に帰ってきてくれるのだと語った。
「娘は結婚するつもりはないと言っておりますので期待はしておりません。自分の力で生活ができればそれでいいと思っております」
「そうですね……」
「けれど、息子には結婚を勧めましたの」
あら、と乙羽が楽しそうな顔をした。
明日香も義母の話に興味がある。
「福岡に転勤の話があると聞きまして、明日香さんをつかまえておきなさいと、あらっ、ごめんなさい。つい、本当のことを、おほほ」
「いいえ……」
本当のことを言ってしまったというしのぶへ、明日香はどう返事をしてよいかわからない。
「長男は去年の秋に結婚して、まもなく福岡へ転勤になったと聞きまして、思わずバンザイと叫んでしまいました。
あぁ、よかった、もう安心だと思いました。母親の役目は終わったと思いました。あとはすべて明日香さんにお任せして、私は自由にさせていただいております」
明日香の頭に、しのぶのバンザイの姿が浮かぶ。
この義母ならそうしたかもしれない、いや、バンザイだけでなく喜んで飛び上がっただろう。
明日香に任せたというのは本当で、なにひとつうるさいことは言わない、ときどき電話をくれるのは何かを送ったときだけ。
贈り物の礼を伝えて亜久里に電話を代わりますと言っても 「いいわ、元気ならそれでいいの」 と素っ気ない返事がある。
しのぶの干渉しない姿勢は明日香にとってもありがたい、バンザイと叫びたいくらいだ。
しのぶの話に聞き入っていた乙羽は、いろいろ思うところがあったのか 「そうですね……」 と繰り返していた。
それからお茶のおかわりを飲み終え、すっかり長居をいたしました、ありがとうございます、明日はよろしくお願いいたします……と、明日香としのぶに丁寧な礼を伝えた乙羽は、私もそろそろ帰りますと腰を上げたしのぶと連れ立って、嬉しそうな顔で帰っていった。