社宅ラプソディ


「グリさん、お疲れさま~」


「明日香も、お疲れさま」


川森今日子が、『ゴミ分別パンフレット』 を届けるために再びやってきて、「ご挨拶代わりに」 と置いていったビールで乾杯して、オードブルの皿に箸をのばした。

オードブルも川森今日子からの差し入れである。

「いらっしゃったばかりで買い物も不自由だと思いまして、余計なこととは思いましたがお持ちいたしました」 と添えられた言葉に、亜久里も明日香も恐縮しながら感動した。


「川森課長の奥さん、すごいな。棟長って、引っ越ししてきた社員の家族に、ここまでするんだ」


「さすが部長候補夫人ね」


「なんだよ、部長候補夫人って」


「管理人の溝口さんが言ってたの。棟長は部長候補の課長の奥様が務めるんだって。

佐東さんも頑張ってくださいって、言われちゃった」


俺もいつか部長になるのか? へぇー、っと、亜久里は大げさに驚いて見せた。

明日香、俺、頑張るからさ、頼むよと、冗談めかして言いながら、エビチリを皿に取った。

この人にも出世欲があるのだろうか、そうは見えないけれどと思いながら、明日香も八宝菜を皿に取る。

川森棟長が持参したのは中華のオードブルで、どうみてもスーパーのお惣菜ではない。

どこから取り寄せたのだろう、近くに美味しい中華料理店があるのかもしれない。

いずれにしても川森棟長にはお礼をした方が良さそうだ、なにがいいだろうかと考え始めた明日香の頭の中に、ある物が浮かんだ。

名古屋の先輩主婦、石田彩子の 「社宅アドバイス」 はほかにもあった。

挨拶に夫の上司へ酒を持参する人もいるが、中には酒を好まない人もいる。

それより、上司の妻が喜ぶものを持参した方が良い、ブランド物の小物などは手ごろだからと言われて、百貨店で石田綾子と選んで用意した物がある。

川森棟長には、後日改めて挨拶に行ってそれを渡せばよいのではないか。

気がかりが解消されて、明日香は心が少し軽くなった。

そう、軽くなったのは少しだけ、以前とは何かと異なる社宅の雰囲気に、期待より不安が勝っている。


「なんだか、名古屋のときと全然違うね。大丈夫かな、わたし」


「明日香なら大丈夫だって、あんまり気にするな。心配なことがあったら、俺にすぐに言ってくれ。

明日香がここまで着いてきてくれたんだから、俺、できることは何でもする」


「うん、ありがとう」


本当は、前から転勤は決まってたんでしょう? だから私にプロポーズしたんでしょう?

古い社宅だって隠してたでしょう!

……と問い詰めるつもりでいたのに、亜久里の真剣な顔をみたら、そんなことはどうでもよくなってきた。

自分を大事にしてくれる夫がいる、それでいいではないか。

たとえ、座ったとたん飛び上がるほど冷たい便座のトイレでも、コンクリートむき出しで体が冷える浴室でも、この人となら頑張っていけそうだと思えるようになっていた。

期待したトイレは、想像以上に狭い個室だった。

洗浄機能は無理としても暖房便座をあと付けしようと思ったが、コンセントがないのでどうしようもない。

ひとつだけ良かったのは、明日香の希望通り部屋は三階だったこと。

上の階は空き室で、壁となりの部屋も空いており物音を気にする必要はない。

一棟は後ろは小学校、前は二棟の背中が見えて、二棟は前後の棟に挟まれて窮屈だが、三棟の 『川崎棟』 は開放感がある。

三階のベランダから見えるのは畑と田んぼの風景だったが、遠くまで見渡せる眺めはなかなかのものだった。

明日香がようやく社宅生活に前向きになっていたところ、川森棟長から渡された書類に目を通していた亜久里が不安の種を持ち出した。


「『信和会』って、奥様会だよな。入会は自由って書いてあるけど、半ば強制だろう」


「そうみたいだね」


明日香に入会の意志の有無も聞かず、「今年信和会に入会されるのは三人です」 と川森棟長は決定事項として伝えてきた。

各棟長を訪ねたとき、「お待ちしていますね」「楽しい会ですよ」 と言った笑顔に、イヤと言えない無言の圧を感じた。


「小野棟の棟長は優しそうだったけど、早見棟の棟長は気が強そうだったね。俺たち、川崎棟で良かったな」


「そうだね……」


引っ越しを終えトラックを見送ったあと、向かいの部屋の住人、中瀬美浜が 「おすそ分けです」 と地元の美味しいパンを持ってきてくれた。

そのとき対応に出たのは明日香だった。


「パンは明日の朝にでもどうぞ。今夜は川森さんから差し入れがあったんじゃありませんか」


「そうなんです。立派なオードブルをいただきました。あの……棟長の川森さんは、引っ越してきた方みなさんにお配りしているんですか」


「えぇ、みなさんにお手製のお料理を配ってるみたいですよ」


「えっ、お手製ですか。お料理、お上手なんですね」


「そうね、自信があるからできるんでしょう。私なんか、とてもとても」


今日のお夕飯も、混ぜて出来上がりの麻婆豆腐だったんだからと、美浜はおおらかに笑った。


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