密事 夫と秘書と、私
「またですか。探しましたよ。こんな時間に何をしているんです」

広いプール内に、抑揚のない声が反響する。

瀬戸(せと)さん、また来たの。大丈夫だよ。逃げたりしないから」

水面に仰向けになって、ぷかぷか浮きながら静かに言った。

「危ないですよ。このようなところで」

夫の秘書、瀬戸(せと)浩志(ひろし)はこうして頻繁に私の元にご機嫌伺いにやってくる。

スラリと背が高く、涼しげで整った顔立ち。銀縁メガネに、髪はきっちり七三分け。今日も高いオーダースーツをシャッキリと着こなしている。

感情が欠落した表情(かお)に、無機質な声。

『真面目なロボットみたいな人』という印象は、初めて出会った時から変わらない。

そんな彼は、どんな業務もこなす、秘書という枠組みを超えた謂わば夫のお世話係であり、私のお目付役でもある。

「だって水の中って、落ち着くんだもん」

マンション内のプールは、利用時間内であれば住人は自由に利用できる。私はその利用時間を過ぎた夜遅い時間に、1人きりで泳ぐのが好きだった。

これはマンションオーナーの特権だ。
天井の照明を落とし、僅かな間接照明だけを付けると、外の夜景の輝きがより一層際立つ。

「1人でいて溺れたらどうするんですか」

私を監視するように言い付けられているのだろうか。

この秘書は、御主人様の夫人がどこで何をしているか、常に把握していないと気が済まないみたいだ。

「溺れて死んでも別に構わないし。そのほうがあの人にとっては都合いいんじゃないの?」

あの人、というのは夫のこと。
言ってからバツが悪くなった私は、浮かぶのをやめて水中に潜った。ぶくぶくと派手に水泡が舞う。

このままずっと沈んでいられたら、どんなに気持ちいいだろう……

なんて馬鹿馬鹿しいことを考えながら、苦しくなる前に水面からザブッと顔を出した。
濡れた髪をかき上げると、ポタポタと水滴が伝う。

「何を言い出すんですか……」

呆れた様にため息をつく秘書は、こんな時間でも、こんな場所でも、相変わらずピシッとスーツに身を包んでいて隙を感じさせない。

多少の違和感はある。でも、それ以外の姿を私は見たことがない。

「あなたも私がいなくなったら1つ面倒な仕事が減って、いいんじゃないの?」

そんな意地悪めいたことを言って、ゆらゆらと水面に波を作りながら、瀬戸さんに近づき、プールサイドに肘をついて彼を見上げた。

相変わらず無表情ではあるけれどメガネの奥の目が心底迷惑そうだ。

「仕事が1つ減るどころか、あなたに何かあったら私の首が飛びます」

「それは大変」

「あまり危険な事はしないでください」

「そうやってどんどん私の自由を奪うのね。いつまでこの生活が続くの? 一生? 息が詰まりそう……」

私はいつもこうして表情ひとつ変えない秘書に、苛立ちをぶつける。
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