引きこもり令嬢は皇妃になんてなりたくない!~強面皇帝の溺愛が駄々漏れで困ります~2
第一章 がんばりたい新米皇妃と新たな味方と
週が明けると、振替休日などあるわけがなく皇妃としての平日が始まる。
謁見の希望があった隣国の要人の妻たちとの茶会、そして外交を兼ねた会談――。
元引きこもりにはかなり体力的にきつい。けれど、自分の肉体と精神に鞭を打って与えられたことに一生懸命向き合っているのも、皇帝ジルヴェストの隣で歩んでいくと決めたからだ。
「ふぅ――」
応接室の一つから退出した時、疲労と、そしてほっとした気持ちから吐息が漏れた。
午前中の三つ目の用事だった。体力が心配されたのだが、やってみると案外気づいた時にはこんなふうに終わっていたりする。
そのことも、エレスティアに『次も』と前向きにさせる勇気を少しくれていた。
彼女が退場するなり専属の侍女たちが歩み寄り、移動のための身なりをすばやく整え直す。
皇妃は、この国で皇帝に続く〝顔〟だ。椅子に座った際に背もたれに触れる背中に流されたハニーピンクの長い髪。若草色の瞳にかかる前髪にも、さっと櫛が入れられる。
(ジルヴェスト様がいつもきちっとしていらしたのも、彼女たちの努力あってのことだったのね)
すると侍女たちと同時に、エレスティア専属の護衛騎士アインスが合流した。
「さすがです、エレスティア様」
彼は代々王家に使えているバグズ家の人間だ。ジルヴェストとは幼少期から共に過ごした幼なじみで、皇帝である彼が最も信頼している友人でもある。
「いえ、私はただ雑談をしただけにすぎませんから」
引きこもり令嬢だったエレスティアは、皇帝の側室に召し上げられて間もなく、皇妃となった。
それは彼女自身まったく予期していなかったことだが、ジルヴェストが愛して、大切にしてくれたからだ。
皇妃として誰もが認めるきっかけになったのは、彼女の魔力の目覚めだ。
魔法師として彼女が秘めていたのは、『絶対命令』という最強の大魔法だった。
現在、その大魔法について関係者以外には伏せられている。それは古代王ゾルジアだけが持っていた大変強力で稀有な魔法であり、その魔法の使い方や詳細もわからないままだ。彼女を守るためにも秘密とされていた。
皇妃として、少しではあるが公務も始めている。
能力は非公開なので、とくにこれといって大きな何かを任せられたり、こなしたりしているわけではない。
元引きこもり令嬢なので、こうして地道に努力を続けているところだ。
「そんなことはございません。外交にとてもよい一石を投じてくださっています。先日も、おかげで貿易の利益幅を増やした契約が結べたと、側近たちも素晴らしさを褒めたたえておりました」
「大袈裟ですわ」
エレスティアは歩きだしながら苦笑する。
ただの談笑にも近いのに、アインスはこうしていちいちよいしょと持ち上げてくるのだ。皇妃になって喜んでくれているかもしれない。側室時代から最弱魔法師のエレスティアの味方でいてくれた。
そう考えると、やっぱりやる気が出る。
後ろから続く侍女たちが「本気にしていらっしゃらない」「本好きゆえの膨大な知識からの談笑で、相手はめろめろに」とひそひそと話す。
その時、後宮へ続く通行制限がされた通路へと入ったところで、エレスティアの顔面に勢いよく黄金色の毛玉がはりついた。
「おまっ、主人の顔面に突撃するなとあれほど言っていただろうっ」
珍しいアインスの砕けた感じが交じった声が聞こえた。
(ピィちゃんが来てから、彼の自然体もよく見られている気がするわ)
時々肩の力が抜けてくれるようになったのは嬉しい。そう思いつつ、エレスティアは顔に張りついたもにょっとした柔らかいものを手探りで包み、優しく顔から離した。
すると、両手のひらにころっと転がった黄金色の毛玉――ではなく、小鳥がいた。
「あらあら、ピィちゃんたら。あなた待つと言っていなかった?」
「ピッ!」
待っていたと応えるみたいに、ピィちゃんが小さな翼で主張した。
そこを覗き込むアインスの顔面が『ほんとかよ』と語っている。だが彼が、ハタと気づく。
「おい待て。いえ、お待ちなさい。お前、その口の周りについているのはお菓子のカスでは!?」
「ぴっ」
「誇らしげにうなずくんじゃありませんっ」
まだ午前中なのに何度食べたら気が済むんだと彼が指を突きつけると、ピィちゃんが腹を抱えてピィピィ鳴いた。
「怒っていることを理解できていないのねぇ」
ピィちゃんは、エレスティアの胸から誕生した時は巨大な鳳凰の姿をしていた。
その際に心に話しかけてきたのだが、魔力がすべてエレスティアの中に戻って体が小さくなってからは、見た目通り幼くなってしまったみたいだ。
心獣というのは一般的に〝白の狼〟だ。
黄金色、それでいて今はどこにでもいるような小鳥――それもあって高確率でただの小鳥に思われることが多かった。
「いいえ皇妃」
勤務中のアインスは、意識してエレスティアのことを『皇妃』と呼ぶ。
「ピィちゃんは理解しています。しているうえで、小バカにしているのです」
「ふふ、アインス様の『ちゃん』呼びは貴重ですわね」
「またそれですか、エレスティア様、今はそこじゃな……くっ、俺がしっかりしなければ……っ」
侍女たちが「アインス様も苦労されますわね」などと言いながら、急ぎエレスティアの顔を拭った。
すると、向かう先からくすくすと小さな声が聞こえてきた。
見てみると、そこにはアイリーシャ・ロックハルツ伯爵令嬢がいた。
「相変わらずアインス様も、エレスティア様といらっしゃるとその無表情が崩れるようですわね」
ハニーブラウンの髪をした、きつい顔立ちの美少女だ。
アインスは心外だと彼女に少し目を細めただけで、今は立場的に護衛騎士らしく佇んでいた。
「アイリーシャ様、ピィちゃんを見てくださってありがとうございました」
「いいのですわ。心獣とは思えない手のかかりようで、まるで小鳥でも育てている気分ですけれど――あ、今のは嫌みでなくってよ?」
アイリーシャが気にして、弱った笑みを浮かべる。
エレスティアは、片手にピィちゃんを移して「ふふっ」と上品に微笑んだ。
「知っていますわ。お気になさらないで」
「ふふ、わたくしの方こそ同じ言葉をお返しいたしますわ。ピィちゃんのことはお気になさらず。心獣がそばにいると動物は逃げてしまうので、わたくしも面倒を見るのが楽しいのです」
お互い向かい合ったところで、くすくすと肩を揺らして笑ってしまう。
アイリーシャは令嬢たちからも一目置かれ、皇帝の直属軍にも所属している優秀で強い魔法師だ。いっときぶつかることもあったが、和解し、今やエレスティアのよい味方になってくれている。
「ところでピィちゃんですけれど、目を離した隙にクッキーの袋をあっという間に探し出してしまって、一袋平らげてしまいましたわ」
「あ、あらあらっ、ごめんなさいっ。隠してはいたのですけれど」
おやつにしても少し食べるのが多いことを気にして、侍女たちと相談して隠したりしている。だが場所を変えても見つかってしまうのだ。
「どうしてかしら、心獣は鼻もきくのかしら?」
首をひねるエレスティアのそばから、アイリーシャが笑顔を張りつかせて視線を下げる。
そこにいたピィちゃんは、口笛を吹くみたいな細い音を出して、わざとらしく顔を右の方に向けていた。それをじっと見ているアインスが「ただの食い意地では」と、低い声でぼそっとつぶやく。
「お菓子も追加で食べ回っていたとすると、見ているのはもっと大変だったでしょう。ごめんなさい」
「いえ、かまいませんわ」
アイリーシャが、にっこりと笑みを戻す。そして美しく一礼した。
「〝皇妃〟、ご公務お疲れさまでございます。わたくしは国境監視部隊の指示本部へと行きます。皇帝陛下からの書類を届けがてら、新人部隊の教育がちゃんとなされているのか、ばっちりチェックしてきますから、陛下にはご安心をとお伝えくださいませ」
「本当にいつもありがとうございます」
「ふふ、いいのですわ。皇帝には、後継ぎのためにも皇妃とのお時間を取る必要がございますから」
実のところ側室入りした時に、初夜はなされなかった。
エレスティアは、じわーっと赤くなった顔をうつむけた。皇妃になった現在もまだジルヴェストとそんな関係は持っていない。
(普通、一国の妃が清い身のままであるのは問題だものね)
当然みんな夜(よ)伽(とぎ)があるものと思っている。彼女がその手の質問に困るたび、事情を熟知するアインスが助け船を出してくれていた。
「それでは」
アイリーシャが去っていった。それを見届けたあと、エレスティアは肩に移動したピィちゃんと共に後宮へ向かうため再び足を進めた。
だが、間もなく王室区から後宮へと続く近道に差しかかると、そこから人が出てきて足を止めた。
「おっと、アイリーシャ嬢はもう行ったのか」
金髪を揺らして颯爽と歩いてきたのは、ジルヴェストだった。
軍の件で、今後の予定確認をしたかったらしい。エレスティアはもう聞いているので安心してくださいと言って、彼女から聞いた話を彼に伝えた。
「よろしくお伝えくださいと言われましたわ」
「そうか、お礼を今度贈っておく。気が強いからな、こちらもちゃんとしておかないとあとが怖い……君も大変だろう」
彼は相変わらず苦手らしい。
一方エレスティアといえば、アイリーシャとはすっかり友人になっていた。同じ女性として芯の強さも尊敬しているし、同性の魔法師としても心強い相手だった。
皇帝が信頼できる人間は多くはない。エレスティアが伝言を届ける体制を取ってくれたことに、彼女も感謝していた。
『報告すべき事柄が一番多いのはわたくしですので――』
その代わりだと言って、アイリーシャはああやって手が空いた時にピィちゃんを見てくれる。
とはいえ、彼女はよくできる女性で、エレスティアは支えられているのも感じていた。
こうしてジルヴェストと日中にも何度か顔を合わせられているのも、一部彼女の計らいがある。
だから彼も『こちらもちゃんと――』と頭が上がらなそうに言うのだ。
「ふふ、いえ、話も合いますから大変なんて感じたことはございませんわ。先程控室に一緒にいた時は、医学の専門書の話なども楽しくいたしました」
「ああ、そういえば彼女は博士号も持っていたな……」
なるほど、という感じのジルヴェストだが、テンションは上がらなさそうだ。
(とことん苦手なのね……)
頼もしいと、軍の部下としてはなくてはならない存在だと言っていたが、相性がよくないという評価部分は変わらないようだ。
「これから後宮に戻るのだったな。足を止めさせてしまって、すまなかった」
「ジルヴェスト様もお茶でも飲んで休憩されてはいかがですか?」
「いや、アイリーシャ嬢に頼んでいた件がどうなっているのか確認して、君の顔を見ながら少しこうして立ち話でもできたらそれが休憩になる。――付き合ってくれて、ありがとう」
彼が言いながら手を伸ばし、エレスティアの髪を指先で優しげにすいた。
エレスティアは、空気が変わったように感じて少し緊張した。彼女の長い髪に、何か彼の興味をそそるようなものでもあっただろうか?
彼が送ってくれた香水が混ざったケア用品は、侍女たちにお願いして後宮から出る用事がある際には使わせてもらっていた。
会う相手もほっと和ませてくれるような優しい香りで、エレスティアも好きだ。
でも、それだけではない気がする。
どきどきして見つめていると、不意に彼がぐっと顔を近づけた。
(あ――)
彼が触れている彼女のハニーピンクの髪が、二人の間で緩やかに揺れた。
ちゅっと唇に柔らかく触れて、彼が離れていく。
エレスティアは不意打ちのキスに頬を染めた。唇を離したジルヴェストが、近くから深い青の瞳でじっと見つめてくる。
その時、肩にいたピィちゃんが「ピッ」と嬉しそうな反応をした。
『触りたい、手に入れたい』
唐突に、ジルヴェストのそんな声が聞こえてきて、エレスティアはどっと心臓がはねた。
彼の後ろからぬっと顔を覗かせたのは、彼と同じ深い青の瞳を持った、黄金色の大きな心獣だ。
『髪だけでは到底我慢できない。いっそ、このまま――』
熱っぽく色っぽい彼の心の声に、エレスティアの鼓動が一気に速まった。
『――いや、だめだ。彼女を思うのなら、俺の欲を押しつけるな』
ジルヴェストがぐっとこらえるみたいに、手を離していく。
心臓がどっどっとはねているエレスティアは、待機しているアインスから「やれやれ」という安堵のつぶやきを聞いて、恥ずかしくなった。
みんな彼女の心獣が魔力の貯蔵庫にもなっていないことを不思議がっているが――実のところ皇国で一番大きな皇帝の心獣も異色だとは、エレスティアだけが知っていることだった。
彼女の心獣と、まるで対のような黄金色の毛並みを持った彼の心獣は、エレスティアだけ聞こえるようにダダ漏れさせてくるのだ。
(あの澄ました顔を見ていると、わかってやっている感じもしてくるような……)
いまだ、どういう原理なのかわからない。
思わずちらりと見てしまった時、ジルヴェストが困ったように微笑みかけてきた。
「すまなかったな、俺の心獣が次の時間を知らせて迎えに来てくれた――そろそろ、行く」
「え、ええ、気をつけていってらっしゃいませ」
今は絶対に引き留められない。彼の思考はそのまま心の声となるので全部聞こえてしまう。
そう思ってエレスティアは彼を見送った。心獣と共に来た通路へと歩いていく凛々しい後ろ姿に、ほぅっと息が漏れる。
彼ほど妻を想い、気遣ってもくれるよき夫はいない。
実は、エレスティアは誰にも言っていないが、側室の指名を受けた際に前世の記憶を思い出した。ある国の姫だった彼女は、十五歳で敵国の王に嫁ぎ、そして悲惨な最期を迎えたのだった。
(彼は――待って、くださっている)
エレスティアは彼に触れられた髪を撫で、そっと胸に抱いた。
ジルヴェストは、彼女が許してからは髪にも触れ、そして時々唇以外のところにも触ってくれるようになった。
いつか、彼と、もっと深いつながりを持つことになる。
彼は閨のことも含む妃教育が終わるのを待つと言ってくれたのだが、エレスティアの体に負担がかからないようにと考えてくれている感じもあった。
魔力が目覚め、大魔法を使い、鳥の姿をした心獣が生まれ――と、多くのことが集中して起こった。
(私の魔力も謎が多いと言っていたから、そのことも含んでいるのかも……)
魔法具研究局宮殿支部も、妃教育が始まる際に『いろいろと調べてみる』と言って動いている。
いまだよくわからないのか、エレスティアの方にも何も知らせは届いていない状況だった。
『私の方でも何か一つでも確信できたら、報告しよう』
そうドーランも言っていたが、今のところ話は出ていない。
不明な現状なので様子を見た方がいいと、側近がジルヴェストに助言するのも推測できた。
エレスティアは国境で異例の大魔法を使った。魔力の量が多いほど暴走するため、魔力が不安定だった場合、持ち主の体を危険に晒すリスクも高まる。
(あの時は、ジルヴェスト様が支えてくださったからできたの)
大好きなピィちゃんに戻って休もうと急かされる感じで頬ずりをされ、エレスティアは「そうね」と答えて歩きだす。後ろからアインスと侍女たちが続く。
――古代王ゾルジアが使っていたという大魔法『絶対命令』。
それが今、魔力が覚醒したエレスティアの中に宿っている。
あの国境での大作戦で魔獣たちの群れに使って以来、発動はしていない。
膨大な魔力も体へと潜んで、魔法具研究局で蝶に向かって小さく唱えてみたが、魔法が発動する気配はなかった。
(使い方もわからない。でも、私は使おうとも思っていないから、いいの)
国が平和になった。
それでいて、エレスティアは自分の心獣ができたことにも満足していた。
魔力の部分だけでもいくつかわかって、それから『魔法が使えるくらい安定しているみたいだ』となったら、初夜がされるのかも――そう、密かにどきどきしながら思った。
謁見の希望があった隣国の要人の妻たちとの茶会、そして外交を兼ねた会談――。
元引きこもりにはかなり体力的にきつい。けれど、自分の肉体と精神に鞭を打って与えられたことに一生懸命向き合っているのも、皇帝ジルヴェストの隣で歩んでいくと決めたからだ。
「ふぅ――」
応接室の一つから退出した時、疲労と、そしてほっとした気持ちから吐息が漏れた。
午前中の三つ目の用事だった。体力が心配されたのだが、やってみると案外気づいた時にはこんなふうに終わっていたりする。
そのことも、エレスティアに『次も』と前向きにさせる勇気を少しくれていた。
彼女が退場するなり専属の侍女たちが歩み寄り、移動のための身なりをすばやく整え直す。
皇妃は、この国で皇帝に続く〝顔〟だ。椅子に座った際に背もたれに触れる背中に流されたハニーピンクの長い髪。若草色の瞳にかかる前髪にも、さっと櫛が入れられる。
(ジルヴェスト様がいつもきちっとしていらしたのも、彼女たちの努力あってのことだったのね)
すると侍女たちと同時に、エレスティア専属の護衛騎士アインスが合流した。
「さすがです、エレスティア様」
彼は代々王家に使えているバグズ家の人間だ。ジルヴェストとは幼少期から共に過ごした幼なじみで、皇帝である彼が最も信頼している友人でもある。
「いえ、私はただ雑談をしただけにすぎませんから」
引きこもり令嬢だったエレスティアは、皇帝の側室に召し上げられて間もなく、皇妃となった。
それは彼女自身まったく予期していなかったことだが、ジルヴェストが愛して、大切にしてくれたからだ。
皇妃として誰もが認めるきっかけになったのは、彼女の魔力の目覚めだ。
魔法師として彼女が秘めていたのは、『絶対命令』という最強の大魔法だった。
現在、その大魔法について関係者以外には伏せられている。それは古代王ゾルジアだけが持っていた大変強力で稀有な魔法であり、その魔法の使い方や詳細もわからないままだ。彼女を守るためにも秘密とされていた。
皇妃として、少しではあるが公務も始めている。
能力は非公開なので、とくにこれといって大きな何かを任せられたり、こなしたりしているわけではない。
元引きこもり令嬢なので、こうして地道に努力を続けているところだ。
「そんなことはございません。外交にとてもよい一石を投じてくださっています。先日も、おかげで貿易の利益幅を増やした契約が結べたと、側近たちも素晴らしさを褒めたたえておりました」
「大袈裟ですわ」
エレスティアは歩きだしながら苦笑する。
ただの談笑にも近いのに、アインスはこうしていちいちよいしょと持ち上げてくるのだ。皇妃になって喜んでくれているかもしれない。側室時代から最弱魔法師のエレスティアの味方でいてくれた。
そう考えると、やっぱりやる気が出る。
後ろから続く侍女たちが「本気にしていらっしゃらない」「本好きゆえの膨大な知識からの談笑で、相手はめろめろに」とひそひそと話す。
その時、後宮へ続く通行制限がされた通路へと入ったところで、エレスティアの顔面に勢いよく黄金色の毛玉がはりついた。
「おまっ、主人の顔面に突撃するなとあれほど言っていただろうっ」
珍しいアインスの砕けた感じが交じった声が聞こえた。
(ピィちゃんが来てから、彼の自然体もよく見られている気がするわ)
時々肩の力が抜けてくれるようになったのは嬉しい。そう思いつつ、エレスティアは顔に張りついたもにょっとした柔らかいものを手探りで包み、優しく顔から離した。
すると、両手のひらにころっと転がった黄金色の毛玉――ではなく、小鳥がいた。
「あらあら、ピィちゃんたら。あなた待つと言っていなかった?」
「ピッ!」
待っていたと応えるみたいに、ピィちゃんが小さな翼で主張した。
そこを覗き込むアインスの顔面が『ほんとかよ』と語っている。だが彼が、ハタと気づく。
「おい待て。いえ、お待ちなさい。お前、その口の周りについているのはお菓子のカスでは!?」
「ぴっ」
「誇らしげにうなずくんじゃありませんっ」
まだ午前中なのに何度食べたら気が済むんだと彼が指を突きつけると、ピィちゃんが腹を抱えてピィピィ鳴いた。
「怒っていることを理解できていないのねぇ」
ピィちゃんは、エレスティアの胸から誕生した時は巨大な鳳凰の姿をしていた。
その際に心に話しかけてきたのだが、魔力がすべてエレスティアの中に戻って体が小さくなってからは、見た目通り幼くなってしまったみたいだ。
心獣というのは一般的に〝白の狼〟だ。
黄金色、それでいて今はどこにでもいるような小鳥――それもあって高確率でただの小鳥に思われることが多かった。
「いいえ皇妃」
勤務中のアインスは、意識してエレスティアのことを『皇妃』と呼ぶ。
「ピィちゃんは理解しています。しているうえで、小バカにしているのです」
「ふふ、アインス様の『ちゃん』呼びは貴重ですわね」
「またそれですか、エレスティア様、今はそこじゃな……くっ、俺がしっかりしなければ……っ」
侍女たちが「アインス様も苦労されますわね」などと言いながら、急ぎエレスティアの顔を拭った。
すると、向かう先からくすくすと小さな声が聞こえてきた。
見てみると、そこにはアイリーシャ・ロックハルツ伯爵令嬢がいた。
「相変わらずアインス様も、エレスティア様といらっしゃるとその無表情が崩れるようですわね」
ハニーブラウンの髪をした、きつい顔立ちの美少女だ。
アインスは心外だと彼女に少し目を細めただけで、今は立場的に護衛騎士らしく佇んでいた。
「アイリーシャ様、ピィちゃんを見てくださってありがとうございました」
「いいのですわ。心獣とは思えない手のかかりようで、まるで小鳥でも育てている気分ですけれど――あ、今のは嫌みでなくってよ?」
アイリーシャが気にして、弱った笑みを浮かべる。
エレスティアは、片手にピィちゃんを移して「ふふっ」と上品に微笑んだ。
「知っていますわ。お気になさらないで」
「ふふ、わたくしの方こそ同じ言葉をお返しいたしますわ。ピィちゃんのことはお気になさらず。心獣がそばにいると動物は逃げてしまうので、わたくしも面倒を見るのが楽しいのです」
お互い向かい合ったところで、くすくすと肩を揺らして笑ってしまう。
アイリーシャは令嬢たちからも一目置かれ、皇帝の直属軍にも所属している優秀で強い魔法師だ。いっときぶつかることもあったが、和解し、今やエレスティアのよい味方になってくれている。
「ところでピィちゃんですけれど、目を離した隙にクッキーの袋をあっという間に探し出してしまって、一袋平らげてしまいましたわ」
「あ、あらあらっ、ごめんなさいっ。隠してはいたのですけれど」
おやつにしても少し食べるのが多いことを気にして、侍女たちと相談して隠したりしている。だが場所を変えても見つかってしまうのだ。
「どうしてかしら、心獣は鼻もきくのかしら?」
首をひねるエレスティアのそばから、アイリーシャが笑顔を張りつかせて視線を下げる。
そこにいたピィちゃんは、口笛を吹くみたいな細い音を出して、わざとらしく顔を右の方に向けていた。それをじっと見ているアインスが「ただの食い意地では」と、低い声でぼそっとつぶやく。
「お菓子も追加で食べ回っていたとすると、見ているのはもっと大変だったでしょう。ごめんなさい」
「いえ、かまいませんわ」
アイリーシャが、にっこりと笑みを戻す。そして美しく一礼した。
「〝皇妃〟、ご公務お疲れさまでございます。わたくしは国境監視部隊の指示本部へと行きます。皇帝陛下からの書類を届けがてら、新人部隊の教育がちゃんとなされているのか、ばっちりチェックしてきますから、陛下にはご安心をとお伝えくださいませ」
「本当にいつもありがとうございます」
「ふふ、いいのですわ。皇帝には、後継ぎのためにも皇妃とのお時間を取る必要がございますから」
実のところ側室入りした時に、初夜はなされなかった。
エレスティアは、じわーっと赤くなった顔をうつむけた。皇妃になった現在もまだジルヴェストとそんな関係は持っていない。
(普通、一国の妃が清い身のままであるのは問題だものね)
当然みんな夜(よ)伽(とぎ)があるものと思っている。彼女がその手の質問に困るたび、事情を熟知するアインスが助け船を出してくれていた。
「それでは」
アイリーシャが去っていった。それを見届けたあと、エレスティアは肩に移動したピィちゃんと共に後宮へ向かうため再び足を進めた。
だが、間もなく王室区から後宮へと続く近道に差しかかると、そこから人が出てきて足を止めた。
「おっと、アイリーシャ嬢はもう行ったのか」
金髪を揺らして颯爽と歩いてきたのは、ジルヴェストだった。
軍の件で、今後の予定確認をしたかったらしい。エレスティアはもう聞いているので安心してくださいと言って、彼女から聞いた話を彼に伝えた。
「よろしくお伝えくださいと言われましたわ」
「そうか、お礼を今度贈っておく。気が強いからな、こちらもちゃんとしておかないとあとが怖い……君も大変だろう」
彼は相変わらず苦手らしい。
一方エレスティアといえば、アイリーシャとはすっかり友人になっていた。同じ女性として芯の強さも尊敬しているし、同性の魔法師としても心強い相手だった。
皇帝が信頼できる人間は多くはない。エレスティアが伝言を届ける体制を取ってくれたことに、彼女も感謝していた。
『報告すべき事柄が一番多いのはわたくしですので――』
その代わりだと言って、アイリーシャはああやって手が空いた時にピィちゃんを見てくれる。
とはいえ、彼女はよくできる女性で、エレスティアは支えられているのも感じていた。
こうしてジルヴェストと日中にも何度か顔を合わせられているのも、一部彼女の計らいがある。
だから彼も『こちらもちゃんと――』と頭が上がらなそうに言うのだ。
「ふふ、いえ、話も合いますから大変なんて感じたことはございませんわ。先程控室に一緒にいた時は、医学の専門書の話なども楽しくいたしました」
「ああ、そういえば彼女は博士号も持っていたな……」
なるほど、という感じのジルヴェストだが、テンションは上がらなさそうだ。
(とことん苦手なのね……)
頼もしいと、軍の部下としてはなくてはならない存在だと言っていたが、相性がよくないという評価部分は変わらないようだ。
「これから後宮に戻るのだったな。足を止めさせてしまって、すまなかった」
「ジルヴェスト様もお茶でも飲んで休憩されてはいかがですか?」
「いや、アイリーシャ嬢に頼んでいた件がどうなっているのか確認して、君の顔を見ながら少しこうして立ち話でもできたらそれが休憩になる。――付き合ってくれて、ありがとう」
彼が言いながら手を伸ばし、エレスティアの髪を指先で優しげにすいた。
エレスティアは、空気が変わったように感じて少し緊張した。彼女の長い髪に、何か彼の興味をそそるようなものでもあっただろうか?
彼が送ってくれた香水が混ざったケア用品は、侍女たちにお願いして後宮から出る用事がある際には使わせてもらっていた。
会う相手もほっと和ませてくれるような優しい香りで、エレスティアも好きだ。
でも、それだけではない気がする。
どきどきして見つめていると、不意に彼がぐっと顔を近づけた。
(あ――)
彼が触れている彼女のハニーピンクの髪が、二人の間で緩やかに揺れた。
ちゅっと唇に柔らかく触れて、彼が離れていく。
エレスティアは不意打ちのキスに頬を染めた。唇を離したジルヴェストが、近くから深い青の瞳でじっと見つめてくる。
その時、肩にいたピィちゃんが「ピッ」と嬉しそうな反応をした。
『触りたい、手に入れたい』
唐突に、ジルヴェストのそんな声が聞こえてきて、エレスティアはどっと心臓がはねた。
彼の後ろからぬっと顔を覗かせたのは、彼と同じ深い青の瞳を持った、黄金色の大きな心獣だ。
『髪だけでは到底我慢できない。いっそ、このまま――』
熱っぽく色っぽい彼の心の声に、エレスティアの鼓動が一気に速まった。
『――いや、だめだ。彼女を思うのなら、俺の欲を押しつけるな』
ジルヴェストがぐっとこらえるみたいに、手を離していく。
心臓がどっどっとはねているエレスティアは、待機しているアインスから「やれやれ」という安堵のつぶやきを聞いて、恥ずかしくなった。
みんな彼女の心獣が魔力の貯蔵庫にもなっていないことを不思議がっているが――実のところ皇国で一番大きな皇帝の心獣も異色だとは、エレスティアだけが知っていることだった。
彼女の心獣と、まるで対のような黄金色の毛並みを持った彼の心獣は、エレスティアだけ聞こえるようにダダ漏れさせてくるのだ。
(あの澄ました顔を見ていると、わかってやっている感じもしてくるような……)
いまだ、どういう原理なのかわからない。
思わずちらりと見てしまった時、ジルヴェストが困ったように微笑みかけてきた。
「すまなかったな、俺の心獣が次の時間を知らせて迎えに来てくれた――そろそろ、行く」
「え、ええ、気をつけていってらっしゃいませ」
今は絶対に引き留められない。彼の思考はそのまま心の声となるので全部聞こえてしまう。
そう思ってエレスティアは彼を見送った。心獣と共に来た通路へと歩いていく凛々しい後ろ姿に、ほぅっと息が漏れる。
彼ほど妻を想い、気遣ってもくれるよき夫はいない。
実は、エレスティアは誰にも言っていないが、側室の指名を受けた際に前世の記憶を思い出した。ある国の姫だった彼女は、十五歳で敵国の王に嫁ぎ、そして悲惨な最期を迎えたのだった。
(彼は――待って、くださっている)
エレスティアは彼に触れられた髪を撫で、そっと胸に抱いた。
ジルヴェストは、彼女が許してからは髪にも触れ、そして時々唇以外のところにも触ってくれるようになった。
いつか、彼と、もっと深いつながりを持つことになる。
彼は閨のことも含む妃教育が終わるのを待つと言ってくれたのだが、エレスティアの体に負担がかからないようにと考えてくれている感じもあった。
魔力が目覚め、大魔法を使い、鳥の姿をした心獣が生まれ――と、多くのことが集中して起こった。
(私の魔力も謎が多いと言っていたから、そのことも含んでいるのかも……)
魔法具研究局宮殿支部も、妃教育が始まる際に『いろいろと調べてみる』と言って動いている。
いまだよくわからないのか、エレスティアの方にも何も知らせは届いていない状況だった。
『私の方でも何か一つでも確信できたら、報告しよう』
そうドーランも言っていたが、今のところ話は出ていない。
不明な現状なので様子を見た方がいいと、側近がジルヴェストに助言するのも推測できた。
エレスティアは国境で異例の大魔法を使った。魔力の量が多いほど暴走するため、魔力が不安定だった場合、持ち主の体を危険に晒すリスクも高まる。
(あの時は、ジルヴェスト様が支えてくださったからできたの)
大好きなピィちゃんに戻って休もうと急かされる感じで頬ずりをされ、エレスティアは「そうね」と答えて歩きだす。後ろからアインスと侍女たちが続く。
――古代王ゾルジアが使っていたという大魔法『絶対命令』。
それが今、魔力が覚醒したエレスティアの中に宿っている。
あの国境での大作戦で魔獣たちの群れに使って以来、発動はしていない。
膨大な魔力も体へと潜んで、魔法具研究局で蝶に向かって小さく唱えてみたが、魔法が発動する気配はなかった。
(使い方もわからない。でも、私は使おうとも思っていないから、いいの)
国が平和になった。
それでいて、エレスティアは自分の心獣ができたことにも満足していた。
魔力の部分だけでもいくつかわかって、それから『魔法が使えるくらい安定しているみたいだ』となったら、初夜がされるのかも――そう、密かにどきどきしながら思った。