ワインとチーズとバレエと教授【番外編】

2時間後、真理子が、
面倒くさそうに
中島と看護師がいる
理緒の病室にやって来た。

そして、電話で看護師に
指示された通り
パジャマやバスタオルや
スリッパやコップや箸
そして、理緒の大学の教科書も
持ってきた。

「また入院?面倒な子ね…」

病室の床に
どさっと、荷物を置いた。

「でも3ヶ月も入院したら
たっぷりアンタにかけてる
保険金をが出るわ。
1日3万、90日で270万ね!」

母親は微笑んだ 。

「いつも通り、これに
入院の時の保険金が出る
書類が入ってるから、あ、
こちら、主治医の先生?」

真理子は中島に
保険請求の書類を渡した。

「あと、あんたが言ってた
教科書とノートを
持ってきたわよ!
あー 重かったわ!
お母さん、これから
出勤だから、じゃあね」

そう言って
病室から去って行った。

その様子を看護師と
主治医の中島先生は
唖然として見ていた。

理緒は入院したその日から
急激に悪化した。

咳が一晩中、
止まることがなく
息が苦しくなりベッドは
常に、背もたれが立ててある
状態だった。
水が肺を圧迫するからだ。

苦しいので、
横になることすらできず
眠ることもできない。

食事も苦しくて
食べることもできない。

でも担当看護師さんには

「何とか少しでも食べてね
そうじゃないと
良くならないから
今は免疫力との勝負だから
頑張ってねと」

と、同情的な目で
理緒を見ていた。

それから1週間
理緒は39℃の高熱が続いた。

24時間、点滴が繋がれているので
脱水症状は防げていた。

まだ21歳の理緒を見て
担当医の中島先生は
理緒を気の毒そうに見ていた。

そして何度も心配し
病室にやってきた。

「苦しいでしょうが
頑張ってくださいね…」

理緒が 「はい」と返事を
しようとすると、中島は
手を止め、

「返事はいいです
喋らなくて大丈夫です
伝えたいことがあったら
紙に書いてください」

中島に大学ノートを差し出され
理緒はノートに「はい」と書いた。

「これから3ヶ月ぐらいの
入院になると思いますが
静養すると思って
ゆっくりしましょうね…」

中島は40代ぐらいの
医師に見えたが、
ここの呼吸器内科の部長を
やっているようだった。

中島が気にしていたのは
理緒の家族背景だった。

そんなことを知らない理緒は
朦朧とする意識の中で

「苦しい、水を抜いて」

とだけノートに書いた。

「…わかってます
あなたが苦しいのは
十分に理解してます…

肺の7割が水で
浸かってるのですから…

でも、水を抜いても
2時間も経たないうちに
また肺に水が溜まってきます

水を抜けば、
脱水症状にもなりますし
細菌感染症のリスクもあります

今はステロイドが効くのを
待ちましょう…

だから今は、ゆっくり
休んでください
そしてできるだけ多く
食べてください…」

理緒はそう言われると
静かにうなづき
眠りについた。

理緒は2週間程、
小康状態が続いた。

熱は39℃のままで
咳が続き、ほとんど
意識がなかったが。

3週間目に入ると
熱が徐々に38℃代まで下がり
食事が食べれるようになり
言葉も喋れるようになってきた。

そんなとき、
主人の中島先生が
理緒の病室にやってきた。

「加納さん、最近どうかな?」

「おかげさまで、前より
ちょっと楽になりました
まさか、3週間もかかって
風邪が治るなんて…」

「風邪じゃありません
重症肺炎です、
一歩間違ってたら
敗血症になって
死亡するとこでした」

理緒は、うつむいていた。

いっそう、死んでた方が
良かったのかもしれない。

なぜ病院に
行ってしまったのだろう…

理緒の抑揚のない顔を見て
中島は、

「少しだけ、先生と
お話できますか?」

と、聞いてきた。

「はい」

「加納さんはS大学に
通っていますよね?」

「はい」

「アルバイトのため
お仕事をしていたと
言ってましたが、
どんな仕事ですか?」

「えっと…、家庭教師と
イタリアンのバイトと
コールセンターと…」

体を売り飛ばされたとは
さすがに言えない。

「奨学金は
申請されないのですか?」

「奨学金は母が
保証人になりたくないと…」

それを聞いて
中島はうつむいた。

「全部一人で学費を
払ってるのですか?」

「はい」

そのバイトのお金だけでは
学費が到底、まかなえないことを
中島は、きっと察したのだろう。

「お母さんはあれから
一度もお見舞いに来ませんが
忙しいのですか?」

理緒は黙った。

「家でどんな
ご飯を食べてますか?
学食ではどんなものを?」

理緒は黙った。

「大学以外では
何をしているのですか?」

と聞かれ

「バイオリンを習っています」

と伝えると中島は
驚いた顔した。

「そうですか、
バイオリンですか」

「はい」

「もう長くやっているのですか?」

「高校生の時からです」

「そうですか、どんな曲が
好きですか?」

「ラフマニノフとパガニーです」

「そうですか、私は
クラシックに
詳しくないのですが
きっと加納さんは、
詳しいのでしょうね」

「それほどでも…」

「バイオリンのお金は
誰が払っているのですか?」

「それは高校時代
フィギュアスケートの
コーチだった
川村先生という方です」

「フィギュアスケートを
やっていたものです?
そうでしたか…スポーツも
頑張られているのですね
もう、やめられたのですか?」

「はい、ヒザが奇形で脱臼し
半月板損傷を起こし
それで引退に…」

「ヒザの奇形は、
お母様は何と?」

理緒は黙った。

「脱臼は今はされませんか?」

「します、その時は自分で
はめてます…」

中島の顔は暗くなった。

「加納さん、話したいことが
あるなら話してもらえませんか?」

話してもしょうがないー

ただ理緒は

「大丈夫です」

と微笑んだ。

それを見て
中島がズバリと聞いた

「家で虐待されてませんか?」

理緒はうつむいた。

虐待なら、もう小さい頃から
ずっと、されてる。

これが虐待なのなら
何なのだろう。

でももう慣れてしまって
虐待とすら思わなくなった。

これが、当たり前だと
思っていたし
自分はそれを
乗り越えてきたし
乗り越える力が
あると思っていた。

でもやはり親の庇護を
受けれない子供は無力だー

「私の力不足です…」

そう言って理緒はひと粒の
涙を流した。

本当は優しい中島に
全部、話してしまおうと
思ったが、病院で
話しても仕方のないことだと
理緒は思った。
そして、中島医師の
気遣いにも感謝した。


"私の力不足です"と言った
理緒の言葉に中島先生は
戸惑った。

「家にいる時は
眠れてますか?」

「いいえ、というか
寝る暇がないのです」

「暇がないとは
バイトをしなければ
いけないからですか?」

「はい、深夜は
コールセンターの
バイトをしていて
早朝に帰り、カバンに
教科書を詰め直して
また大学に行きます」

「ではいつ寝るのですか?」

「バイトが早く
終わった日に寝ます」

中島から、
しばらく言葉がなかった。

「これから、
辛いことがあったら
何でもいいので
私に言ってください
いいですね?」

と中島は微笑んだ。

理緒もうつむきながら微笑んだ。
そして、中島の優しさに
泣きたくなった。

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