ワケあり王子は社員食堂の女神に恋をする
ホームを電車が発車した後、首を下げ続けた桜葉の身体には、よくわからない疲れだけがどっと残っていた。
ゆっくりと駅員さんに支えられながら医務室へと向かう妊婦の彼女。
彼女のバッグを代わりに持ちながらその後ろを歩いていく桜葉は、どこか心ここにあらずといった感じだ。
“後悔”という思いだけが深い溜め息と共に吐き出されていく。
(ハァー……何であんなこと口走っちゃったんだろう。
本人も知らない、周りが勝手につけているあだ名で呼んじゃうだなんて──院瀬見さん、気を悪くしてなきゃいいんだけど…)
時々、思ったことが脳みそを通らず直接口に流れてしまうのは桜葉の悪い癖。
社会人になってからというもの、気を付けようと心がけてきていたのに……どうも咄嗟の出来事に対しては今回のようなことが少なからず起きてしまう。
“院瀬見王子”
彼が言った通り、この呼び名はハスミ不動産の女子社員の間だけではなく、桜葉達のような他の女子従業員にも浸透している呼び方。
── そんな呼び名をつけられた彼は、ハスミ不動産の営業部部長、院瀬見 岳、二十七歳。
まだ若いながらも部長という役職に就いているのは、彼が入社以来トップの営業成績を維持し続けているからだ。
仕事ができる上に部下や上司に受けが良いほどの柔軟な性格、更に見た目がモデル級ときている。
そうなると職場では、岳の彼女や妻の座を狙う女子社員達の色めき立ちが半端ないのだ。
それは食堂従業員も例外ではない。
チャンスがあればその座を狙おうと、女子社員には負けていられまいと、日々岳の情報収集は怠らないのだ。
しかし、桜葉の場合はハスミ不動産に勤め始めてまだ半年──特に彼のことを気にしていたわけでもなく、このほとんどの情報は食堂の先輩である水口 千沙の受け売り。
(でも…他の人はスルーなのにわざわざ駆け寄ってくれて、更にその後の行動もスマートで──。
千沙さんや周りの人達が言っているように院瀬見さんってやっぱり、本当に優しくて仕事の出来る人なんだな)
偶然にも岳と直接話したことで桜葉の心に、まだ名もつかぬ温かな灯がポッと光り始めたような気がした。
── けれど、
その小さな灯りがこの先、消えそうになったり更には燃え上がりそうになったりと、紆余曲折してしまうことになるとは……
そのことに桜葉が気付くのは、
まだもう少し先の話しとなる──