ワケあり王子は社員食堂の女神に恋をする


「──あぁ……桜葉さんには昨日、今日起きること以外のこれまでのこと全て話した。…その時、久遠のことも話したけど、でもなぜ桜葉さんが」

途中から神谷の存在を忘れたかのようにブツブツと独り言を話し始める岳。

(──まさか、久遠のところへ桜葉さんは逢いに行ったんじゃ……いや、そもそも桜葉さんが逢いに行く理由なんてどこにも……)

自分の知らない所で何か悪いことでも起きているのではないかと、漠然とした嫌な胸騒ぎに岳は居ても立ってもいられなくなる。

(こんなところで考えていても埒が明かない。とにかく潮くん達に話しを聞きに──)


「君…院瀬見くんじゃないかい?」

桜葉のことを聞くため千沙達のいる厨房へ向かおうと岳が踵を返したその時であった。
突然聞き慣れない声が岳を呼び止めたのである。
いや、聞き慣れないのとは違う──遠い記憶の中で聞いたことのある低くて落ち着きのある知的な声。
岳が後ろを振り向くとそこには、二十年ぶりに見る少しばかり年老いた久遠が立っていたのである。

「久遠、さん…」

同じ会社と言っても今や花形の営業部に所属する岳と、底辺である窓際部署に所属する久遠が顔を合わせることなどまずない。
そもそもハスミは大企業── 一体この会社ではどれだけの社員が働いているものか……関係性がない限り顔も知らぬまま定年を迎える、なんてことは有り得ることなのだ。

目の前にいる久遠は五十代前半なのだが、以前より年老いたと言ってもまだまだ四十代と言っても良い程の若さを保っていた。
染めているのか白髪もない真っ黒な髪を後ろに流し、二十年前と変わらずの黒縁眼鏡をかけ岳達と同じくパーティー仕様のフォーマルスーツを身に纏っている。

(なぜ庶務課の久遠がこのパーティーに……全く関係もないはずなのに)

「あぁ、憶えていてくれて嬉しいよ。……でもあの時は確か、植島さんという苗字でしたよね」

(白々しい…とっくに俺の苗字が変わってることなんて知っていたくせに)

「ええ、お久しぶりです久藤さん。久藤さんもこのパーティーにいらしてたんですね、庶務課の…それも第二室の方にはてっきり関係のないものだと思っておりましたが……それともこの高級ホテルに泊まりにでも来たんでしょうか?」

第二室とは庶務課の端に位置する、窓際族へと追いやられた者達が行きつく墓場。
その何とも言えぬ嫌味が含まれた言葉に久藤の顔からは笑顔が一気に消え失せてしまう。

「まさか。ここは予約すら取るのも難しいホテル、ましてや平社員の私に払えるお金なんてないですから。
それに院瀬見くんの言う通りこんな華やかなパーティーにも第二室の出る幕なんてありませんよ。
私はただ、薫子お嬢様にお願いをされて付き添い役として参加したまで……あぁ、そう言えば聞きましたよ院瀬見くん。お嬢様とご婚約されたそうじゃないですか、おめでとうございます」




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