ワケあり王子は社員食堂の女神に恋をする





桜葉のアパートは少しばかり小高い場所に位置していた。
最寄り駅からはさほど遠くはないのに、アパートへ行き着く最後の砦に二十段ほどの階段が待ち構えている。
だからか他のアパートよりも多少家賃が安い。

その階段を半分ほど登ったところに踊り場スペースがあり、桜葉はそこで一旦呼吸を整えるために休憩を挟んでいる所だった。
何しろ今日の桜葉はいつもよりかなり多めの運動量をこなしている。
いくらまだ若いとはいっても桜葉の足にもそろそろ限界が近付いていた。

(ハァ〜……一駅分って、思ってたより距離があってもうヘトヘト…それに最後の最後でこの階段地獄、はっきり言って足が既に棒のよう)

──と、弱音を吐いても結局はこの階段を登りきらないと自分のアパートへは辿り着けないのだから文句を言っても仕方がない。
桜葉は自分の息を再度整え、残りの階段を登ろうと一段目に足を掛けたその時……


「あ、あっ……さ、さよちゃんっ!」

突如として辿々しく、また馴れ馴れしく叫ばれた自分の名前。
この時間にこんな場所で、まさか自分の名前が呼ばれるとは予想だにしていなかった桜葉の心臓は、驚きにつられバクバクと激しく波打ってくる。

それでもそっと後ろを振り返った桜葉の視界に入ってきたのは、見知らぬ男性が落ち着かぬ様子でその場に立つ姿。
階段の一番下にいるその男性は、踊り場にいる桜葉をチラッと見上げては直ぐ様視線を外し、そんな調子を繰り返しながら見つめてきたのである。

(……えっと、だ、誰? 私の…知らない人、だよね?)

見知らぬその男性は二十代後半ぐらいだろうか。
少し長めの髪は無造作にあちこちと散らばっている……悪く言えばボサボサ──前髪も長い上に眼鏡をかけているため、相手の顔や表情をハッキリと読み取ることができない。
服装は上下に別れている少し薄汚れた灰色の作業服を着ていた。

「……えっと、あの、どちら様…でしょうか?」

「……え? や、やだなぁ~。君の忠彦(ただひこ)じゃないかぁ……あれぇ、もしかして彼氏のこと忘れちゃった?」

(……え……、何? ただ、ひこ? かれ、し?)

──こ、怖い

彼の言っていることが何一つわからないという恐怖の感情だけが桜葉の全身を一瞬にして覆っていく。
それもそのはず、桜葉にとってこの男性は彼氏でもなければ逢ったこともない、忘れるも何も身に覚えが全くない人なのだ。



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