ワケあり王子は社員食堂の女神に恋をする
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「あのね、お母さん! 今日は先生が試合の稽古をつけてくれたんだよっ」
空手教室での様子を、目を輝かせながら一生懸命母に伝えようとする岳少年。
一カ月後に迎える初めての試合、岳少年にとってそれは未知の世界というもの。
母と手を繋ぎながら楽しそうに話す岳少年にやはり辞めろだなんて酷なこと、到底母には言えるはずがなかった。
辛い胸の内を隠し母は優しい笑顔を岳少年に向ける。
早くに父と結婚した母は今はまだ三十代前半と若かった。
それに加え目鼻立ちが整っており、子供がいながらもプロポーションは抜群──だから、そこらへんの若い子に負けず劣らずの美人で男性客の受けも良かったのだ。
「そっか~、良かったね! じゃあ、いっぱい練習してお腹も空いてるだろうからお母さん、岳の好きな料理いっぱい作っちゃおうかな」
「やったぁ!!」
暫し今の辛い現状を忘れ、普通の親子の何気ない幸せな会話を楽しむ── そうなるはずだった……
だが、そんなひと時もある人物の出現によって儚くも壊れてしまったのだ。
突然、母の歩みがピタッと止まる。
不思議に思った岳少年が手を繋ぐ先を見上げてみると、そこには先程までの優しい表情とは違う、険しい顔つきである一点を睨む母がいたのだ。
更に母の睨む目線を辿るとその先には、壁に横付けされた黒色の高級車が停まっていた。
そしてその高級車にもたれ掛かり、偉そうに腕を組みながらこちらを見ている一人の男性が岳少年の視界に入る。
その男は、蓮見 京一郎であった。
以前のやり取りから “この男は悪い奴だ” と、岳少年の頭の中では既にインプットされてしまっている。
母と繋いだ手にギュッと力を込めた岳少年は、「お母さん、早く帰ろう」と母に懇願し家路を急ぐよう促そうとする。
しかし自分達の今の状況、この男のやり方、店から手を引いてほしいという要望──母の口からは京一郎に直接言ってやりたい言葉が溢れ出ようとしていた。
息子のそんな一言にも動じない母からは一旦視線を外し、京一郎の方を見やると彼はニヤニヤと不敵な笑みを浮かべている。
もしかしたらこの男はこうなることを予想してここへ来たのではないだろうか──
そう感じてしまうと余計に早くこの場から離れほうがいいのではないか──そんなことを考え焦ってしまう岳少年とは対象的に、母はゆっくりとした口調で言葉を告げてきたのである。
「……岳。お母さん、ちょっとあの人に言わなきゃいけないことがあるの。
お家、すぐそこだから岳はもう一人で帰れるわよね。家でお父さんが待っているはずだから」