ワケあり王子は社員食堂の女神に恋をする
母の思いがけない返答によって岳少年の気持ちは更に焦りを伴ってしまう。
「い、嫌だよっ! お母さんも一緒に帰ろう」
「── ごめんね、岳。お母さん、あの人と少しだけお話しをしたらすぐ帰るから」
少し躊躇いながらもそう言った母は優しい笑顔を再度見せると、握っていた岳少年の手を静かに離し行ってしまう。
考えてみたら──母の笑った顔を見たのはこれが最後のこと、だったのかもしれない。
母は京一郎となにか会話をしているようだが、岳少年にその内容の意味なんてわかるわけがない、けれど一つだけ聞き取れたあるワードが岳少年の耳に強く残っていた。
「──アカ…デミアホテル……」
それは幸いなことだったのか、岳少年はそのホテルの名に聞き覚えがあったのだ。
(確かそこって……前に父さんと母さんと三人でご飯を食べに行った所、だったような……)
自分が憶えている限りの記憶の中からそのホテルの名を探し出そうとしているその隙に、母は京一郎に促されるまま高級車へと乗り込みそのまま走り去って行ってしまったのである。
(え、ど、どうしよう!?そこに追いかけて行ったほうがいい!?
でも僕だけじゃ追いつけるわけないし……それよりも早く帰ってこのことをお父さんに伝えたほうが)
岳少年のマンションは、ここから走って行けば子供の足で三分ほどの場所にある。
気ばかり焦りながらも岳少年は、思いっきり自分が今出せる力の限り走った。
そして、息を切らしながらタイミング良く降りてきたエレベーターの中へと乗り込む岳少年。
自分達の部屋は一番上の階──「早く早くっ!」と口に出しながら、移りゆく階数表示を見つめている。
── チンッ
エレベーターが自宅のある五階へと辿り着いた途端、急いで走り出した岳少年は家のドアをガチャリと開け、「お父さんっ!!」と大きな声で叫んだ。
更にリビングへと続く扉を開けた瞬間、岳の五感に真っ先に飛び込んできたのは嗅覚──どこかで嗅いだことのある美味しそうな香りが岳少年の鼻に漂ってきたのだ。
その香りを嗅いだ瞬間、岳のお腹はグゥ~と大きな音で鳴り響いてしまう。
香りにつられそのままキッチンへ向かい見たものは、湯気が立ち昇る今まさに出来上がったばかりであろうオムライス──それがテーブルの上に三つ並んでいたのである。