吸血姫と夜明けの音

2.死と乙女

本日の最高気温は三十八度。猛烈な酷暑となります。熱中症には十分ご注意の上お過ごしください。
今朝は気象予報士がそう言っていたのを思い出す。暑いだけならまだいい。問題はこの湿度とセットでこの暑さになっているってことだ。
外に出ている人間を全員蒸し焼きにでもする気なのかと太陽に訴えたい。せめて睨んでやりたいが、そんな余裕はもうなくなっていた。
呼吸をすればするほど息苦しくなる。遠くで蜃気楼だか陽炎が見える気がする。
駄目だ、しっかりしなくちゃ。
私はファーストフードのチェーン店が入っているビルの壁に背を預ける。ポケットからスマホを取り出して、写真のアイコンをタップした。
男の写真をアルバムから確認して、改めてその特徴を頭に叩き込んだ。
舞香を暴行した男は、無感情に私を見ている。恐ろしい悪鬼のような顔を想像していたが、むしろどこにでもいそうな凡庸な顔だった。
私は昨日の舞香との会話を思い返す。


舞香から示談になったと連絡がきた次の日。
私はノートのコピーを舞香に渡すため病院に寄った。殴られた顔はガーゼも取れて、傷痕は一つもないように見える。CTだかMRIだかよくわからない検査も受けたらしく、後遺症の可能性は低いし大丈夫と笑っていた。
その舞香にあの時の記憶を思い出させるのはどうなんだろう。そう思わなかったわけがない。それでも私は聞かなくてはならなかった。

「舞香、その、声かけてきた時に写真撮ったって言ってたよね」
「え? うん……」

舞香の顔が一瞬だけ強張ったのに気づかないふりをして、できる限り淡々とした調子を装う。

「その写真さ、送ってくれない?」

舞香はクルミのような目をさらに丸くした。

「それはいいけど……どうして?」
「SNSのアカウントにのっけて、注意喚起したくて……ほら、他の人がまた酷い目にあったりするかもしれないし」

半分本当で、半分嘘だ。嘘というか、本来の目的を舞香には言えないだけのこと。
そういうことなら、と舞香はすぐ写真を送ってくれた。背景をよく見ると昼間の繁華街らしく、人間が多く行き交い空は明るかった。

「こいつはどこで声をかけてきたの?」


確かここら辺だったはずだ。
舞香が開いてくれた地図アプリを写真に撮っておいて良かった。スワイプして表示される店名や通りの名前はあってるけど、やっぱり昨日の今日じゃ見つからない。
SNSでも何か情報が集まってないか確認する。「私も声をかけられた」「こいつじゃないけど危ない目にあったことがある」「怪我した子は大丈夫?」……収穫はなし。
じっとしているよりは近くを探したほうがいいのかもしれない。
私は壁から背を離すと、人間の波に混じって歩き始めた。とりあえず一周してみよう。
ぶつからないように、あの顔が見つかるように、視線を左右に素早く動かす。いない。どこだろう。脳が煮えそうだから早いとこ見つけなくちゃ。
あいつ見つけて舞香の仇打ちをしなくちゃ。見つけたらどうしてやろう。粉になるまで吸い尽くすのは確定として、じわじわ血を失う恐怖を感じてもらうのはどうだろう。うん、我ながらいい考えだ。
そのためには早く見つけないと。

「っ!」

左手に何かがかすったような気がして、思わずそっちに顔を向ける。あいつではない男がそこにいた。どうも手同士がぶつかったみたいだ。

「あ、すみません」
「うん、こっちこそ」

あの角を曲がらないと。一周するはずが通り過ぎてしまった。

「お姉さん、どっかで会ったことない?」

は?

「こんなに綺麗なら絶対忘れないはずなんだけどなぁ」

ああもう、どうしてこの可能性を考えなかったんだろう。そうだよ、ナンパしてくる男だっているよ。これで今好き勝手ペチャクチャ喋ってる男が例のあの男ならここで噛みつけば全部解決だけどそんな簡単に運良く会えたりしないもんねあはは。
まぁいいや。こいつもここですすっちゃえばおしまいだし。
私は牙に意識を集中させる。させようとした。

「関藤さん」

涼やかな声が、私を現実に引き戻した。
右に顔を向けると、冷たささえ感じる姿がそこにある。いや冷たいは失礼だよね。清涼感? いやいや飲みものじゃないんだし。
私が一人脳内でノリツッコミをしていると、小出くんは急に私の手をつかんだ。

「行こう」

どこに?
そう聞きたかったけど小出くんは有無を言わさず歩き出す。私はあの男を探し出して血を吸わないといけないのに、手に力が入らなくて振り解けない。
アイボリーとネイビーのボーダーTシャツを見ながらひたすらついていく。ちょっとダボッとしていて小出くんの趣味なのかなぁと考える。ボーダーって下手すると太って見えるんだよね。
小出くんがいきなり歩調をゆるめた。ボーダーがドアップになる。

「ここに座って」

一人がけのソファに座らされる。言われるまま座ると、もう二度と立ち上がれないような気がぼんやりとだけど、した。

「吐き気はする?」

首を横にゆるゆる振った。目眩と怠さはあるけどそれだけだ。
自然と視界が床に移った。大理石の床と男物のサンダルが見える。ここどこ?あいつは?

「経口補水液、飲めそう?」

何かよくわからないけど飲みものくれるらしい。私は手を伸ばしてペットボトルを受け取ると、少しずつ口に含んだ。沁みる。生き返る。目の前のモヤがかかった光景が、少しずつ晴れていく。

「小出くん……?」

夏空よりもっと薄い青が私を写している。どうして小出くんがここにいるんだろうと疑問に思って、顔を上げて辺りを見回した。一人がけのソファがいくつか。自販機が数台。奥にはトイレの標識も見える。何より涼しい。

「だから、陽でいいって」

彼が苦笑した。眉尻が下がって目は弓形にしなる。その声が甘く聞こえて、落ち着いたはずの熱が上がってしまいそうになる。とっさに空いている手で口元を覆い、目をつむった。

「ありがとう……ごめん……」
「いいよ。無事でよかった」
「お金、返すよ……。二百円でいい?」

私がペットボトルを顔の横まで持ち上げると、小出くんは慌てて私の手に自分の手を重ねる。

「そのくらいいいから。奢り」
「この間助けてもらったばっかりなのに」
「別にさ、お礼してもらいたくて助けたわけじゃないから」

困った。小出くんはこの前の痴漢や、今こうしてまた助けてくれたことを当然だと思ってる。彼のような見返りを期待せずに他人を助けるタイプには、それとわからないよう、さらに後で気づいてもこちらに返せないよう恩返しをするのが一番いい。
けどそんなのかなり難しい。至難の業だ。

「……どうしてそんなに親切にしてくれるの」

なんだか自分の存在が、最高に薄汚く思える。
人間社会に恩返ししたい。そう息巻いてもやっていることはただの“駆除”で命を奪う行為だ。
それに引き換え彼はどうだろう。誰かの命を奪わずに助けている。簡単なようでいて、とても大変なやり方だ。実践し続けるのはどうしたって辛いだろう。それをなんでもないように装ってこなしてしまう。
──私なんかを気にかけていい人じゃない。

「下心」
「え」

小出くんはいたずらっ子のように笑った。下心? 下心って言ったの今?
とたんに思い出す。そういや私の手に彼の手が重なっているままだ。

「って言ったらどうする?」
「あ、え、あの」

今度は真顔になった。ひどく真剣な眼差しから逃げられなくて、それでもどう答えればいいのかわからなくて、あたふたしかできなくなる。

「ごめん。困らせて」

小出くんの手が離れた。名残惜しいと思ってしまった心に蓋をして私は額の汗を拭う。

「困ってないよ。びっくりしたけど」
「うん。びっくりさせてごめん」
「ううん、私こそ変なこと聞いてごめん」

私がそう言うと、小出くんは「気にしないで」と立ち上がった。

「俺、別に誰にでも親切ってわけじゃないよ。関藤さんだからそうしただけ」

私は思わず腰を浮かそうとして──目の前が歪み、諦めてソファに戻った。目を閉じて、深呼吸を繰り返す。
次に目を開けた時、小出くんはもういなかった。


あれから例の男を探す気にもなれなくて、家に帰ってソファに横たわった。苦しい。心臓が苦しくてたまらない。こんなこと今までになかったのに。頭の中を小出くんの言葉がぐるぐる回り続ける。
舞香に話せば気が紛れるだろうか。
スマホを手に取りメッセージアプリを立ち上げる。

〈舞香、今大丈夫?〉
〈大丈夫だよ、どうしたの?〉

舞香は今日の午前中に退院だったはずだ。それでも明日の登校準備で忙しいかもしれない。そんな不安が頭の奥をよぎった。
手短かに今日あったことを伝えると、舞香からはしばらく何の返信もなかった。ああ、やってしまった。舞香は男に酷い目にあわされたのに、男の話をしてどうする。私は変な男に言い寄られたりしないっていう自慢? 吐き気がする。
マイナスに傾いた思考はさらに転がり落ち続ける。
あそこで小出くんが声をかけてくれなかったら、真っ昼間の街中で人間を襲うところだった。そうなれば百人計画は台無しどころか“一族の恥さらし”として命を狙われる。そうなれば私は世界でたったひとりぼっちになってしまう。
背中どころか心臓を冷たい手で握られたような感覚がする。さっきとは別の意味で苦しくなって、自分を自分で抱きしめる。震えが止まらない。深呼吸もしてみる。
ポコンと場違いな音がスマホから響いた。
舞香からの返信だった。

〈運命みたい〉

そこには短くそれだけ表示されていた。
運命。
運命かぁ。
震えはあっさり治まっていた。自分でも現金なやつだと思う。思いながらも、思考がマイナスから帰ってこれてほっとした。
画面に浮かぶ“運命”を見続ける。
確かに、送ったメッセージの内容だけ見ればそう思えるかもしれない。痴漢から助けてくれた男の子が転校生で、気のある素振りを見せてきて、ナンパから助けてくれて介抱までしてくれた。その上告白めいたことまで言ってきた。こうして羅列すると出来過ぎていて怖い。
でもどうしたって無理だ。
私が人間だったら甘くも息苦しいドキドキに身を任せられただろう。でも私は吸血鬼だ。人間と恋人や夫婦にはなれないし、いずれ一族の男と結婚して子を産まなくてはならない。何百年も前からそうしてきたんだから、私だってそうしないと。
私の“運命”は決まっている。
スマホの画面がにじむ。鼻の奥がツンとして、喉に何かが迫り上がる。苦しい。違う。苦しくなんかない。
別のことを考えよう。
例えば、そうだ。舞香の退院祝いに映画を見に行くのはどうだろう。何か面白いのはやっていただろうか。舞香はファンタジーが好きだって言っていたから……。
私はさっそく舞香にメッセージを送って、映画を観にいこうと誘った。かわいい“OK”のスタンプが送られてくる。

〈小出くんとのデートの練習?〉
〈違うって〉
〈照れなくてもいいよ〉
〈舞香を練習台にはしないって〉

誰も練習台にはしないって。そう送れば、リスが“によによ”としているスタンプが送られてきた。

〈デートはするんだね?〉
〈そういう約束はしてないから〉

これは何と返してもそういう方向で返してくる気だな。
私は確信して変化球を投げてみることにした。

〈明日学校に来れば誰が小出くんかすぐにわかるよ〉
〈写真とかはない?〉
〈ない。舞香が好きになったら困るもん〉

ネコが“つーん”としているスタンプを送れば、小鳥が目を潤ませているスタンプが送られてきた。

〈お祖父さんがロシア人なんだよね? 目立つしモテそうだね〉
〈めっちゃモテる。女子にずっと囲まれてたし〉
〈小夜ちゃん、応援するからね。負けないで〉

クマが目から炎を出しているスタンプが送られてきた。アニメーション付きで、炎が大きくなったり小さくなったりしている。
それを見ながら、私はある計画を練っていた。


「小夜ちゃん、おはよう」

次の日の朝、通学路で舞香と合流した。お下げにした栗毛を揺らしながら走ってくるのを見て、本当に元気になったんだなと安心する。
私はおはようと返して、彼女と並んで歩く。周りは同じような生徒でいっぱいだ。そこに小出くんの姿はない。

「小夜ちゃん、今日はもう会えた?」

誰に? なんて野暮なことは聞かない。私は「学校に行けば嫌でも会える」と笑って、深刻そうな表情を作って切り出した。

「ねぇ舞香……お願いがあるんだけど……」
「お願い?」
「うん……その、小出くんと一緒にいる時にね、舞香にもいてほしいんだ」

舞香は口を半開きにしたまま私を見つめている。唖然、絶句。そんな言葉が頭に浮かぶ。

「緊張しちゃって上手く喋れないの」

私が顔を俯かせて呟くように言えば、舞香は「うーん」とうなる。後もう一押しだ。

「最初だけでいいの、お願い!」

手を合わせて拝むようにして見せれば、舞香は「本当に最初だけだよ」と苦笑しながら言ってくれた。良かった。作戦は順調だ。
これで小出くんが後ろから声をかけてきてくれれば完璧だけど、そんな都合のいい展開が用意されていたりはしない。

「関藤さん!」

そう、こんな感じで話しかけてくれたりしないかなって思うけど、まぁ学校に着いてからだよね。うんうん。でもいっつも女子に囲まれてるしどうすれば……放課後にかけるしか……。

「関藤さん、おはよう」

肩を軽く叩かれ思わず飛び上がりそうになった。というか、心臓は絶対に飛び上がった気がする。

「っ!……おはよ」
「……大丈夫? 具合悪い?」

がんばって自然な笑顔を作ったつもりだったけど、やっぱり不自然に見えたらしい。自分でも引きつっているのがわかる。

「うん、大丈夫、大丈夫……」
「小夜ちゃん」

隣りから天使の声が聞こえてきた。

「あの、転校生だよね?」
「うん。あの、ほら、この間話した小出くん」

舞香の顔がパッと明るくなった。小出くんに目を向けてにっこりと笑いかける。

「はじめまして」
「はじめまして。関藤さんの友達?」
「うん、池澤 舞香。よろしくね」
「小出 陽。こっちこそよろしく」

一時はどうなるかと思ったけど、ファーストコンタクトは成功のようだ。後はこのまま学校まで二人がどれだけ仲良くなれるか。学校に着けば二組の女子たちに囲まれてしまうのはわかりきっているから、この十分弱が菖蒲になる。

「小夜ちゃんと小出くんて乗る駅が同じなの?」
「路線は同じだけど、乗る駅は違うよね?」
「うん、俺はいったんバスに乗って──」

舞香は私と小出くんの仲を取り持とうとしてくるけど、今はまだそれでいい。私をはさむ二人の様子に注意しながら、少しずつ歩くペースを落とす。そうすれば嫌でも、ほら。

「小夜ちゃん?」
「危ないよ」

私たちの横を自転車に乗ったおじさんが通り過ぎていく。もう少し歩けば“横に広がるのはやめましょう”と赤字で書かれた看板が見えてくる。
二人くらいならまだいい。でも三人で横に広がればかなり邪魔になる。現にあのおじさんは今にも舌打ちをかましそうな顔で自転車をこいでベルを鳴らしていた。

「あ、じゃあ私後ろいくよ」

舞香は私と小出くんの返事も待たずに歩くペースを落とした。私は前に出て小出くんと並ぶ。例の看板が見えてきたのを横目に、私は小出くんと舞香が並んだ時の姿に思いを馳せる。
アイスブルーの瞳の王子様と、長く柔らかい栗毛のお姫様。お姫様は暴漢から怖い目にあわされたけど、優しい王子様の登場によって心を癒す。二人は結婚して、お姫様は幸せなお嫁さんになれました。めでたし、めでたし。
私は吸血鬼だから小出くんと付き合ったりできない。でも優しい小出くんには絶対に幸せになってほしい。
舞香だってそうだ。辛い思いをした分、幸せになってほしい。そう願うくらいは許されるだろう。

──だから、二人がくっつけばいい。

他人から見れば、すごくおかしなことを言ってるし、しているんだろうと思う。でも人間ではない私が、大好きな人間にできる最大限の愛情表現はこれしかない。
あれだ。好きなもの同士を掛け合わせるとすっごく美味しいみたいなやつだ。いや、やっぱりちょっと違うかな。
とにかく、私はこれから吸血鬼として世の中をより良くするだけでなく、キューピットとして働かなくてはならない。学生としての生活もあるから、三足の草鞋を履くことになる。
私は密やかに闘志を燃やしながら、二人と一緒に校門を通った。


今週から期末テスト週間だから、そもそも二人とはあまり会話ができない。テストそのものを忘れてはいなかったけど、本格的に動くのは夏休みになりそうだと、肩透かしをくらった気分になった。
英語の文章問題を解きながら、思考は舞香と小出くんまで飛んでしまう。舞香は退院したばかり、小出くんは転校したばかりなので特別措置として課題の提出のみでテストは免除された。今は別室でそれぞれ待機して、与えられた課題に没頭している頃だろう。
休み時間くらいなら会えるかな。
そう思っても、二人の困惑した顔が浮かぶ。テストに集中しないといけないというのに、空気の読めない真似をしたらキューピットどころの話じゃない。
腕時計を確認する。二十分したら英語の試験は終わる。残りは二問。うん、たぶん平気。少なくとも赤点にはならない……はず。
このあっつい中補講とか絶対に無理。その一心で勉強そておいてよかった。なんて、気の早いことを思いながら私はシャーペンを握り直した。
この文章の“that”が示しているのは、この一つ前の“my picture”だから……うん、これで全部解けた。
簡単に見直しをしてもう一度腕時計を見る。後五分。ちょうどいい時間だ。次の化学に出てくるだろう化学式が気になるけど、今気にしてもしょうがない。
この五分で夏休みの構想を練ろう。
舞香には“緊張しなくなるまで”と話してあるから、遊びに行こうってなったら小出くんを誘って三人で遊ぼう。連絡先の交換もまだしてなかったから、できれば試験最終日に交換してグルチャでも作れば完璧かな。
だから手順としては、連絡先の交換。次にグルチャ作って。それから遊ぶ計画を立てる。よし。
遊ぶ場所はどうしよう。こんなに暑いんだし室内のほうがいいよね。映画館とか水族館とか。海にも行ってみたいけど、日焼けも熱中症も気になるから、あんまり暑くない日にしないと。
でも海は外したくない。いつもと違う開放的な空間。水着になって普段とのギャップに高鳴る鼓動。恋が始まっちゃう予感──!
いつか読んだ雑誌の受け売り文句を想像してみた。みたんだけど、それぞれ互いの印象はどうだっただろう。悪くはなかった……と思う。舞香は“私の好きな人”って前情報があるから恋にまで発展するのは難しい。小出くんは。
小出くんは。
……小出くんなら舞香を任せられる。イケメンで優しい人だ。舞香はきっと可愛くて幸せなお嫁さんになれる。
真っ白くてふわふわなウエディングドレスを着た舞香と、真っ白なタキシード姿の小出くんを想像してみる。二人は教会で、たくさんの大切な人たちに見守られながら、誓いのキスを──

「──解答止め」

低くてかさついた試験監督の声に、現実へと引き戻される。
英語の試験が終わって、これから答案用紙を回収する時間になっていた。


あれから、グルチャを作るまでは上手くいった。
私の想定した通り試験最終日に三人で下校して、駅のプラットホームで連絡先を交換した。あの独特の解放感に気がゆるみ、その隙を突けばいけるんじゃないかと計算したら大当たり。

「番号教えて。夏休みになったら三人で遊びに行こうよ」
「いいよ、日本で行きたいとこいっぱいあるし」
「舞香も交換しちゃいなよ」
「うーん、小夜ちゃんがグルチャ作るんじゃダメ?」
「一応だよ一応。せっかく仲良くなったんだし」

私が目配せをすると、舞香はうっすら笑ってスマホを取り出す。小出くんもスマホをポケットから出して、私と舞香でORコードを読み取った。登録し終わったちょうどいいタイミングで電車がやってきて、私たちは乗り込む。

「小出くんはどこに行きたい?」
「この近くで何かお祭りとかやってない?フェスとか」
「舞香、どう? なんか知ってる?」
「音楽フェスが来月あるけど……ちょっと遠いかな」

電車に乗って相談していれば、時間はあっという間に過ぎてしまう。小出くんが降りてしまうと、私と舞香はさっそく話し合った。

「舞香、私大丈夫だった? おかしくなかった?」

電車のドアから流れる景色を背に、私は舞香に尋ねてみる。電車内は私たちのような学生で溢れかえっていて、夏休みの計画やテストの出来で盛り上がっていた。大声ではなかったけど、楽しそうな、あるいは深刻そうな空気がこっちにまで伝わってくる。
私たちの空気はどっちだろう。深刻そうなほうかな。

「大丈夫だよ。自然に話せてた」

舞香は静かに笑う。

「小夜ちゃん、心配のし過ぎだよ。全然普通に話せてる」
「ほんと?」
「本当」

私が脇の臭いを嗅ごうとする仕草を見せれば、舞香は腕を取って首を小さく降った。

「大丈夫、臭くないから」
「……完璧でいたいし」
「反省会はこのくらいにして、これからの予定を考えよう?」

ね?と珍しく力強い口調で舞香が私の目を見つめる。私は大人しく頷いた。
舞香は本気で私と小出くんの仲を応援しようとしている。
でも私は。本当は。
舞香を騙している罪悪感が私の舌を凍らせた。舞香はそんな私を見て、予定について考え込んでしまったと思ったらしい。「難しいよね、重過ぎないデートとか」と悩み出した。
確かに難しい。友だち数人で行くならカラオケとかボウリング、ゲームセンター……総合アミューズメントパークが隣りの市にあったから、夏休みならそこでも行ける。むしろ思い切って旅行でもいいかもしれない。
でもデートはどうだろう。付き合ってるとは言い切れない、でも絶妙にいい雰囲気の二人がいきなり旅行に行こうとするのはハードルが高い。水族館とか遊園地とか動物園で一日遊ぶ……まぁ無難だけど下手するとずっといい友だちのままでいるはめになりそう。近くの公園や図書館……お堅い、お堅すぎる。
私もうんうんと悩んでいるうちに、舞香が降りる駅に着いてしまった。アプリで連絡は取り合えるから話し合うのには困らない。だけどやっぱり顔を合わせて決めたかった。


〈もしかしてこいつ?〉

その投稿が目に入ってきたのは家に帰ってひと段落し、日課になったSNSを開いて流し見していた時だった。
ワンピースタイプのパジャマに着替え、自分の部屋で麦茶を飲みながらベッドに腰掛けた。我ながら器用に親指でアプリを立ち上げ、何かあの男の情報はないかと期待半分、諦め半分で画面に目をやった。

そこに飛び込んできたのがこの投稿だ。

興奮で震えそうになる指を抑えながら、投稿をタップする。大手動画サイトのチャンネルが表示された。
概要欄には“ナンパ”“お持ち帰り”“即”──吐き気を催す言葉が飾り立てられて、スマホを握りつぶしそうになる衝動をどうにか必死に押しとどめる。血圧が上がりそう。深呼吸、深呼吸。
さすがに動画は全部見られなかった──見てしまったら怒りのあまり心臓が止まっていた自信がある──けど、舞香からもらった写真と照らし合わせて確信した。間違いない、この男だ。

「ふふっ……」

自分でも不気味な笑い声を漏らしてしまった。誰も聞いていないからこそ漏らせた声だ。見つけた。ついに見つけた。小躍りしたい感覚というのは、きっとこういう気持ちのことを言うんだろう。
幸いにもこの男は次にナンパする場所を視聴者に向けて公開している。わざわざ自分の巣穴を教えてくれる獲物がいる! 嗤いが止まらなくなりそうだ。
待っててね、舞香。もうすぐ、もうすぐ敵討ちができる。

高揚する気分の中、ポコンと間抜けな音が聞こえてきた。舞香からのメッセージだった。

〈小夜ちゃん、映画にしない?〉
〈映画?〉
〈うん、それなら緊張しなくてすむかなって〉
〈そっか、映画なら大丈夫かも〉
〈私の快気祝いってことで〉
〈よし、映画にしよう〉

テンションが上がったまま簡単に計画は進んでいく。ジャンルはどうする? 好き嫌いはあるだろうしニッチなのはやめとこ。ホラーはなしね。いいじゃん、どさくさに紛れて抱きつけば。舞香って積極的なのね。
軽口を叩き合いながら日時も決めてしまう。いくつか決めて、小出くんの予定を聞くことになった。なんだか順調すぎて怖いような。
いやいや怖がってどうする。この波に乗らずしていつ乗る。あの男を粉になるまで吸いつくし、舞香と小出くんを急接近させるのだ。

またポコンと音がした。珍しく両親からだ。

まさか緊急事態?
急速に気分は冷えて、別の意味で震える指で画面を撫でる。内容をざっくり確認すると、私は麦茶を置いてベッドに倒れた。
ヴァンパイアハンター警報だった。私が住んでいる近くに出没が確認されたらしい。〈お前なら大丈夫だと思うが、くれぐれも油断しないように〉と締めくくられていたけど、何を見て大丈夫だと思ったんだろう。
それから私と婚約してもいいという男がいる。ヴァンパイアハンターがいなくなったらまた連絡するから準備しておくように。そんな文言もあった。
とうとう来てしまった。
しょうがない。しょうがないことだ。わかっていたことだ。
ああ、でもせめて。

(小出くんに、「小夜でいいよ」って言えばよかった)
< 2 / 4 >

この作品をシェア

pagetop