あんたなんかもう好きじゃない
絶句する雅也の顔をまじまじと見つめ、出会った頃のことを思い出す。
彼の描く絵と、彼の横顔、その二つが恋に落ちたきっかけだった。
そしてこの恋をより強固なものにしたのは、彼の声だった。
好きになったこと自体は後悔していない。
ただただ、彼をずっと好きでいられなかったことが残念だった。
「誰か、俺以外の人を好きになったの?」
彼の声には、私を責めるような響きはなかった。
むしろ確認するような、探るような声だった。
咄嗟に真尋先輩のことを思い出すが、そうなると芋づる式にあの日の夜のことも思い出してしまう。
雅也の前でこんな事を考えるなんて、と罪悪感で胸がひりつき、まだ彼に対する気持ちがあるのだと自覚してしまった。
「あのね、私浮気したの。雅也以外の人と寝たんだ」
3年間の付き合いの中で、私は初めて雅也が傷つく姿を見た。
端正な顔がぐにゃりと歪み、目から光が消えたのを見て、罪悪感だけではなく優越感やほの暗い悦びも感じてしまった。
そして、そんな自分の汚さにどうしようもなく嫌気が差した。
「もしかして、真尋先輩?」
なぜ、その名前が。
まさかいきなり真尋先輩の名前が出てくるとは思わず、私は言葉を詰まらせた。
その様子は雅也から見たら肯定しているように見えたのだろう。
そうか、と一言呟いて彼は俯いた。
実際に浮気相手は先輩なのだから、間違ってはいない。
だが、心のどこかで私はモヤモヤとした何かを感じていた。
そうだけど、そうじゃない。
国語力の低すぎる要領を得ない一言が頭の中でぐるぐると回る。
「先輩が楓のことを好きなのは知っていたから、もしかしてって思ったんだ。そうか……」
私自身は気づかなかったことを雅也は知っていたという、その事実にも衝撃が走る。
しばらく無言の時間が流れ、雅也が静かに切り出した。
「わかった。別れよう」
こうして、私の初恋は幕を閉じた。
すっかり食欲なんかなくなって、私たちは何も頼まずにタイ料理屋を出た。
炭酸が抜けてぬるくなった妙に甘いバタフライピーソーダの味がしつこく舌に残る中、二人で駅まで歩く。
別れる以上は、もうこんな風に二人で夜に出歩いたりしない。
今までのように休日を一緒に過ごしたり、誕生日を二人きりで過ごしたりもしない。
当たり前のことなのに、分かりきっていたはずのことなのに、手放したものがあまりにも大きく感じて、別れを切り出しておきながら涙が止まらなかった。
「楓、今までありがとう……好きになれなくてごめん」
改札前で雅也が最後に言ったこの一言は、私をどこまでも落ち込ませたけど、同時にすっきりさせてもくれた。
やはり、彼は私を好きではなかったのだ。