白い嘘と黒い真実
「おい、田中。いくら酔っているといえ失礼だろ。すみません、こいつの言ったことは忘れて下さい」

すると、隣に立っていた四十代ぐらいの男性は、田中と呼ばれた人の頭をいきなりゲンコツで殴り、礼儀正しく即座に頭を下げてきた。

「い、いえ。お、お構いなく……」

なんて、言葉ではそう言ったけど、内心滅茶苦茶気になり過ぎて、今直ぐにでも追求したい欲求を私は何とか抑える。

「教官。とりあえず中に入って下さい。すみません、椎名さん。もしかしたら騒がしくなるかもしれませんが、極力気を付けますので」

その様子を今まで黙って見ていた澤村さんは、表情一つ変える事なく静かにそう告げると、扉を開けてさっさと部屋の中に入ってしまった。

その場にポツンと残された私は、呆然としながら閉まった扉をひたすら見つめる。

二人の前でも相変わらずの無愛想ということは、あれが澤村さんの素なのだろうか……。

そんな事をぼんやりと考えながら、私もいい加減に部屋の中へ入ろうと、鞄から鍵を取り出して扉を開ける。

それから、電気をつけて先ずは換気をしようと部屋のカーテンを開けた瞬間、干しっぱなしになっていた洗濯物が視界に飛び込んできて、私は慌ててベランダの外に出た。

「……あっぶなー。良かった、雨降らなくて」

帰省する前の日に洗濯していたことをすっかり忘れていた私は、大きな独り言を呟きながら、物干し竿に掛けていたハンガーに手を伸ばした時だった。

突然隣の部屋から大きな笑い声が聞こえてきて、その声量に思わず肩が震える。


「けど、マジでウケるな。お騒がせな椎名真子が隣人だなんて、お前も運がないというか何というか。とりあえず、くれぐれも不祥事を起こさないように気を付けろよ」

どうやら、向こうも窓を開けているようで、会話の内容が筒抜けな上に、自分は警察署内で厄介者扱いされていたという事実を知り、私はショックのあまりその場で固まる。

「どんな事案だよ。関わるわけないだろ。ただ見てるだけでもイライラするのに」

しかも、心底嫌そうな澤村さんの本心までしっかりと聞こえてしまい、まるで重たい岩が全身にのしかかってきたような衝撃に、もう立っているのが辛くなってきた。

まさか、そこまで拒絶されていたなんて。
さっきまで、あの冷めた態度はもしかしたら私だけではないのかもと少し希望が持てたのに、それは見事打ち砕かれ、絶望の淵に立たされてしまう。

よく人から能天気だと言われたりするけど、それが澤村さんにとってそんなに許せない事なのだろうか。

これでは幼い頃の話を持ち掛けるなんて、到底出来ない。
一体何故そこまでの反応を示すのか分からないけど、それ程嫌がられているのであれば、私も関わることは止めようかと思った矢先だった。

誰かがベランダの外に出たようで、隣から網戸を開ける音が聞こえ、私は再び肩をびくりと震わせる。

「……まあ、無理もないか。お前の親父さんと似たようなタイプだしな」

どうやら、声の主からして教官と呼ばれた男性のようで、しかも何やらとても引っ掛かる会話の内容に、私は息を殺して衝立の方へそっと近付いた。

「警察学校時代の澤村は今でもよく覚えてるよ。一人だけ明らかに雰囲気違かったし。初任科生(警察官としての基礎的教育訓練期間)のくせに殺伐としてて新鮮味が何にも感じられなくて、お前よくそれで採用されたよな」
 
それから、煙草の煙りと共に耳に届いた澤村さんの過去話が気になり過ぎて、衝立に耳をあてるという完全盗み聞き状態の体制で、私は更に会話を拾おうと試みる。

「志望理由がかなり明白だったからじゃないですか?面接で、父親を欺いて自殺まで追い込んだ詐欺師達を取り締まりたいって言ったら全員黙りましたよ」

そして、衝撃的な澤村さんの過去話を聞いてしまい、私は危うく手に持っていた洗濯物を落としそうになってしまった。
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