政略結婚は純愛のように〜夏の日に〜
夏の日に
「ほら、大丈夫だから。お父さんのところまで来てごらん」
廊下を挟んだ和室から、一生懸命な隆之の声が聞こえている。
キッチンで夕食の支度をしている由梨はそれに耳を傾けていた。
今彼は沙羅とふたり和室にいる。一歳になった彼女に立って歩く練習をさせているのだ。
いや練習というか、沙羅はすでに歩くことはできる。つい二週間ほど前に、由梨と秋元が見ている前で一歩二歩と歩き出した。
すごいすごいと手を叩いて喜ぶと、自分も小さな手を叩き、にっこりとしたのが可愛かった。彼女の成長を秋元も泣いて喜んでいた。
それからはもう、走る勢いで歩きまわるから、由梨はおちおち家事もしていられない。慌てて秋元と頭をぶつけそうなものを片付けてリビングのレイアウトを少し変えたくらいなのだ。
でもそれを隆之はまだ見ていないのだ。
なぜか沙羅は、父親である隆之の前では歩こうとしない。
沙羅が歩いたと知った隆之は、都合をつけてなるべく早く帰ってきて、沙羅が歩くところを見たがっているというのに。
沙羅は父親の帰宅を喜んではいるが、抱っこをせがむばかりで昼間のように歩いてみせてくれないのだ。
『家にいる時は、それこそ一歩も歩かせない勢いでいつも抱いているから、お父さんがいる時は歩く必要がないと思っているのかもしれませんねえ』
そう秋元に言われて苦い表情になっている隆之がおかしかった。
『ま、そのうち見られますよ』
その通りだ。いつかは見られるだろう。
でもそれで彼が納得できるはずがなく、休日の今日、転けても怪我をする心配のない和室へふたりでこもっているというわけだ。
「沙羅? お父さんにも見せてくれ。歩けるんだろう?」
「あ、ぶー!」
「抱っこか、抱っこもいいけど……」
襖の向こうから聞こえる可愛いやり取りに、由梨はふふふと笑みを漏らした。
こんなひとときが由梨にとっては幸せだった。
夕食を作り終え、あとは温めるだけにしておく。練習を終えたふたりが出てきたらいつでも食べられるように。
離乳食が始まって半年、食欲旺盛だけど少し乱暴で、たくさんこぼす沙羅のエプロンと着替えまで用意して、ふと耳を澄ませると和室が静かになっていた。
首を傾げて行ってみる。
音を立てないように襖を開けると、中では沙羅と隆之が畳の上にねっ転がり、寝息を立てていた。
「寝ちゃったのね」
歩くのを見たいといっても本人にその気がないならどうやっても仕方がない。
後半は、ドタバタという物音と、沙羅の笑い声が聞こえていたからきっとハイハイで追いかけごっこをしていたのだろう。
たっぷり遊んでもらって満足した!という寝顔の沙羅と隆之の寝顔が愛おしい。
口元に笑みを浮かべながら、由梨は押し入れからタオルケットを出して、ふたりそれぞれにそっとかける。そして、縁側に面した障子を開けた。
暑いから冷房を効かせるために閉めていたのだ。
随分と日がかげって涼しくなってきた。まだ小さい沙羅のために少し外気を取り込む方がいいだろう。
縁側に座りサルスベリが見頃を迎えている加賀家の庭を眺める。由梨はここからの眺めが好きだった。
生まれ育った場所なのにいつ見てもよそよそしく感じた今井家の庭と違って、季節を感じられるこの庭は、いつも由梨を温かく迎えてくれた。
「今日は歩く気分じゃなかったみたいだ」
いつのまにかやってきた隆之が縁側にゴロンと横になる。座っている由梨の膝に頭を預けた。
「まだまだお父さんに抱っこしてほしいんでしょうね」
くすくす笑いながら由梨が言うと彼は残念そうに肩をすくめる。
「歩けるようになっても、好きなだけ抱っこしてやるのに」
そう言って気持ちよさそうに目を閉じた。
たくさんの人の上に立ち、常に気を張っている彼が自分だけに見せる無防備な姿に、由梨の胸はきゅんと跳ねる。
子に恵まれてもう一年以上経つのに、いつまでも初めてこの家に来た時と同じ反応をする自分の心臓に呆れてしまう。
そっと彼の髪に指を絡めると、指先に感じる少し固い感触。この感触も自分だけが知っているのだ。
目を閉じたままの彼の高い鼻にちょんと人差し指で触れてみるが、彼は反応しなかった。手を組みまるで寝てしまったかのようである。
長いまつ毛。
癖のある髪。
なにもかもが愛おしくてたまらなかった。
そっと振り返り、和室の沙羅がまだ眠っていることを確認する。そして眠っている彼の唇に、思い切ってそっと口づけた。
「それだけでいいのか?」
目を開いて問いかける隆之に慌てて顔を上げようとするが、いつのまにかうなじ腕を回されていて叶わなかった。
「ん……。たか……ん」
想定していたよりもはるかに甘いキス。
膝の上の寝顔に、たまらなくなって口づけてしまったが、ここまでしたいと思っていたわけではないと、抗議の声をあげようとする。
けれどいつのまにか、起き上がった隆之の腕に閉じ込められていた。
「たか……ゆ……」
「しっ。沙羅が起きる」
「だって……んっ……!」
あとはもう彼の思うままである。
ようやく解放された時は、くたりと身体を彼に預けて、大好きな彼の瞳をぼんやりと見つめるだけだった。
「可愛いいたずらの代償だ」
また、ゆっくりと近づく彼の唇。
あと少し……というところまできた、その時。
うしろで沙羅がうーんと唸って寝返りを打つ。
隆之がぴたりと止まり至近距離でふっと笑い唇の代わりに額と額をくっつけた。
「続きは、夜だな」
廊下を挟んだ和室から、一生懸命な隆之の声が聞こえている。
キッチンで夕食の支度をしている由梨はそれに耳を傾けていた。
今彼は沙羅とふたり和室にいる。一歳になった彼女に立って歩く練習をさせているのだ。
いや練習というか、沙羅はすでに歩くことはできる。つい二週間ほど前に、由梨と秋元が見ている前で一歩二歩と歩き出した。
すごいすごいと手を叩いて喜ぶと、自分も小さな手を叩き、にっこりとしたのが可愛かった。彼女の成長を秋元も泣いて喜んでいた。
それからはもう、走る勢いで歩きまわるから、由梨はおちおち家事もしていられない。慌てて秋元と頭をぶつけそうなものを片付けてリビングのレイアウトを少し変えたくらいなのだ。
でもそれを隆之はまだ見ていないのだ。
なぜか沙羅は、父親である隆之の前では歩こうとしない。
沙羅が歩いたと知った隆之は、都合をつけてなるべく早く帰ってきて、沙羅が歩くところを見たがっているというのに。
沙羅は父親の帰宅を喜んではいるが、抱っこをせがむばかりで昼間のように歩いてみせてくれないのだ。
『家にいる時は、それこそ一歩も歩かせない勢いでいつも抱いているから、お父さんがいる時は歩く必要がないと思っているのかもしれませんねえ』
そう秋元に言われて苦い表情になっている隆之がおかしかった。
『ま、そのうち見られますよ』
その通りだ。いつかは見られるだろう。
でもそれで彼が納得できるはずがなく、休日の今日、転けても怪我をする心配のない和室へふたりでこもっているというわけだ。
「沙羅? お父さんにも見せてくれ。歩けるんだろう?」
「あ、ぶー!」
「抱っこか、抱っこもいいけど……」
襖の向こうから聞こえる可愛いやり取りに、由梨はふふふと笑みを漏らした。
こんなひとときが由梨にとっては幸せだった。
夕食を作り終え、あとは温めるだけにしておく。練習を終えたふたりが出てきたらいつでも食べられるように。
離乳食が始まって半年、食欲旺盛だけど少し乱暴で、たくさんこぼす沙羅のエプロンと着替えまで用意して、ふと耳を澄ませると和室が静かになっていた。
首を傾げて行ってみる。
音を立てないように襖を開けると、中では沙羅と隆之が畳の上にねっ転がり、寝息を立てていた。
「寝ちゃったのね」
歩くのを見たいといっても本人にその気がないならどうやっても仕方がない。
後半は、ドタバタという物音と、沙羅の笑い声が聞こえていたからきっとハイハイで追いかけごっこをしていたのだろう。
たっぷり遊んでもらって満足した!という寝顔の沙羅と隆之の寝顔が愛おしい。
口元に笑みを浮かべながら、由梨は押し入れからタオルケットを出して、ふたりそれぞれにそっとかける。そして、縁側に面した障子を開けた。
暑いから冷房を効かせるために閉めていたのだ。
随分と日がかげって涼しくなってきた。まだ小さい沙羅のために少し外気を取り込む方がいいだろう。
縁側に座りサルスベリが見頃を迎えている加賀家の庭を眺める。由梨はここからの眺めが好きだった。
生まれ育った場所なのにいつ見てもよそよそしく感じた今井家の庭と違って、季節を感じられるこの庭は、いつも由梨を温かく迎えてくれた。
「今日は歩く気分じゃなかったみたいだ」
いつのまにかやってきた隆之が縁側にゴロンと横になる。座っている由梨の膝に頭を預けた。
「まだまだお父さんに抱っこしてほしいんでしょうね」
くすくす笑いながら由梨が言うと彼は残念そうに肩をすくめる。
「歩けるようになっても、好きなだけ抱っこしてやるのに」
そう言って気持ちよさそうに目を閉じた。
たくさんの人の上に立ち、常に気を張っている彼が自分だけに見せる無防備な姿に、由梨の胸はきゅんと跳ねる。
子に恵まれてもう一年以上経つのに、いつまでも初めてこの家に来た時と同じ反応をする自分の心臓に呆れてしまう。
そっと彼の髪に指を絡めると、指先に感じる少し固い感触。この感触も自分だけが知っているのだ。
目を閉じたままの彼の高い鼻にちょんと人差し指で触れてみるが、彼は反応しなかった。手を組みまるで寝てしまったかのようである。
長いまつ毛。
癖のある髪。
なにもかもが愛おしくてたまらなかった。
そっと振り返り、和室の沙羅がまだ眠っていることを確認する。そして眠っている彼の唇に、思い切ってそっと口づけた。
「それだけでいいのか?」
目を開いて問いかける隆之に慌てて顔を上げようとするが、いつのまにかうなじ腕を回されていて叶わなかった。
「ん……。たか……ん」
想定していたよりもはるかに甘いキス。
膝の上の寝顔に、たまらなくなって口づけてしまったが、ここまでしたいと思っていたわけではないと、抗議の声をあげようとする。
けれどいつのまにか、起き上がった隆之の腕に閉じ込められていた。
「たか……ゆ……」
「しっ。沙羅が起きる」
「だって……んっ……!」
あとはもう彼の思うままである。
ようやく解放された時は、くたりと身体を彼に預けて、大好きな彼の瞳をぼんやりと見つめるだけだった。
「可愛いいたずらの代償だ」
また、ゆっくりと近づく彼の唇。
あと少し……というところまできた、その時。
うしろで沙羅がうーんと唸って寝返りを打つ。
隆之がぴたりと止まり至近距離でふっと笑い唇の代わりに額と額をくっつけた。
「続きは、夜だな」
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