政略結婚は純愛のように〜夏の日に〜
そして今
「りんご飴! りんご飴!」
黄色い蝶の模様の浴衣に赤い兵児帯をつけた娘の沙羅が、由梨の袖を引く。息子の隼人を腕に抱いて彼女を見つめながら、由梨は困ったなと思っていた。
今夜は年に一度の花火大会だ。
由梨と隆之は子供たちを連れて花火がよく観える大会会場へやってきた。隆之が取引先から桟敷席のチケットをもらったからである。
チケットをもらった時は、隆之と沙羅ふたりで来ることになっていた。まだ小さい隼人が、花火の大きな音を怖がるかもしれないと思ったからだ。
でも少し前に行った遊園地のパレードで花火を見た彼ははまったく怖がるそぶりもなく、むしろ目を輝かせて見ていたから、連れてくることにしたのだ。
桟敷席はゆったりとしたスペースが取られていて、まだ小さい隼人がいても安全だ。
混雑を避けて、まだ明るいうちにここへ来て、お弁当を皆んなで食べていたら、隆之にあちらこちらから声がかかりはじめた。
当然といえば当然だ。
地元の花火大会の桟敷席なのだ。
地元の有力者たちの集まる場所と言っても過言ではない。そして彼らは皆隆之とビジネス上での繋がりがある。
そうなっては"プライベートで来ているから"と言って無視するわけにもいかず、今彼は、いくつかの席へ挨拶に行っている。
一方で、お腹いっぱいになった沙羅は少し退屈になったようだ。会場の向こうに見える夜店に興味津々である。
「だけどもう少しで花火が始まるよ」
隼人を抱いたまま沙羅の手を引いて人がたくさんいるところへ行く自信がない由梨は、なんとか彼女の気を逸らそうと試みる。でも彼女は納得しなかった。
「りんご飴、買ってくれるってお父さん約束したもん!」
「そうだけど……。お父さんが戻ってきたら連れていってくれるよ。もう少し待てる?」
「えー! だってお父さん、お仕事でしょ……」
そう言って沙羅はしょんぼりする。膨らんだ頬が可哀想で由梨の胸は痛んだ。
隼人が生まれることを、楽しみにしていた沙羅は、生まれてからもとても可愛がってくれている。
でも赤子がいれば、由梨ができることは限られてくるのも事実で、結果、我慢させてしまうことも少なくはなかった。
その分、父親である隆之がいる時は、めいいっぱい甘やかしてくれてはいるけれど……。
「……やっぱり、お母さんと行こうか。待ってね、はっくんを抱っこ紐に入れるから」
大変は大変だけど、できないことはないだろうと由梨が決心してそう言うと、沙羅は目を輝かせる。
「本当?」
「うん、ちょっと待ってね。お父さんにも連絡しておくから」
由梨がそう言って携帯を手にした時、隆之が帰ってきた。
「ごめん、由梨。あれ? どっか行くのか?」
由梨はホッと息を吐いた。
「沙羅が、お店の方に行きたいって言うの」
「お父さん、りんご飴! りんご飴‼︎」
沙羅が彼のシャツの裾を引っ張った。
「ああ、そうだったな。お父さんと買いに行こう」
隆之が答えて、沙羅を抱き上げ愛おしそうに彼女のこめかみにキスをする。
沙羅が不満そうに口を尖らせた。
「抱っこじゃなくても、沙羅自分で歩けるよ、もうお姉ちゃんなんだから」
『もうお姉ちゃんなんだから』は、最近の彼女の口癖だ。
弟が生まれて急にそういう気分になったようだ。外で歩いている時などに抱っこされると不満そうにする。
この間生まれたばかりのような気がするのに寂しいと思いつつ、由梨にとっては助かる場面も多かった。
隼人と沙羅を連れて大人は由梨ひとり、という状況で外出するときなどは、彼女に歩いてもらうしかないからだ。
でも父親である隆之にとってはただ寂しいだけのようで……。
「あっちは人が多いから、迷子になってしまうよ。お父さんの抱っこで行こう」
「沙羅、ちゃんとおててつなぐもん」
「それでも危ない。足元が見えないからお気に入りのサンダルが脱げてしまうぞ」
なにかと理由をつけては抱きたがる。今日の沙羅は新しい浴衣を着ていて特別に可愛いから、なおさらなのだろう。
とはいえ、彼の言うことはもっともだ。今夜の花火大会は、全国的にも有名で他県から泊まりがけで来る人もいるくらいなのだ。店がある方は随分と混雑している。
「沙羅、お父さんの言う通りにして? さっき来る時に見てたお面も買ってもらっていいから」
由梨が助け船を出すと、沙羅は途端に笑顔になった。
「お面も? やったあ!」
隆之の首に腕を回し、ご機嫌で頬を寄せる。隆之が嬉しそうに目を細めた。
そんなふたりに、由梨は思わずふふふと笑う。
彼女が生まれた時からずっと隆之は一緒にいる時は可能な限り沙羅を抱いていた。だから彼女にとって隆之の腕は自分専用の特等席なのだ。
居心地がいいのは間違いない。
「お父さん、早く早く」
沙羅が言って身体を揺らした、その時。
ドーン!と大きな音がして、光る大輪が夜空に散る。
観客から歓声があがった。
花火の打ち上げが始まったのだ。
「すごーい! きれーい!」
沙羅が夜空に手を伸ばす。
由梨の腕の中で、隼人も目をキラキラさせて「あまあまあま」と声を出した。
夜空に光る色とりどりの花を見上げなが、由梨はいつかの日のことを思い出していた。
加賀家の庭で隆之とふたり線香花火をしたあの夜のことだ。
仕事が入り花火大会へ行けなかったという出来事が、温かい思い出として由梨の胸に残っている。
あの夜の由梨は、きっと今が自分の人生で一番幸せな時なのだと思っていた。残念なはずの出来事を、幸せな思い出に変えられるくらい大好きな人と一緒にいられるのだから。
でもそれは違っていた、と今思う。
沙羅と隼人というかけがえのない存在に恵まれて、そのふたりの成長を彼と共に見守ることができている。
今はもっともっと幸せなのだから。
何気ない日常も。
ちょっとしたやり取りも。
彼と一緒なら、特別で大切なものに変わる。
ずっしりと重い腕の中の存在を感じながら、沙羅を抱いて花火を見上げる隆之の綺麗な横顔を見つめる。
隆之がこちらに気がついて柔らかく微笑んだ。
黄色い蝶の模様の浴衣に赤い兵児帯をつけた娘の沙羅が、由梨の袖を引く。息子の隼人を腕に抱いて彼女を見つめながら、由梨は困ったなと思っていた。
今夜は年に一度の花火大会だ。
由梨と隆之は子供たちを連れて花火がよく観える大会会場へやってきた。隆之が取引先から桟敷席のチケットをもらったからである。
チケットをもらった時は、隆之と沙羅ふたりで来ることになっていた。まだ小さい隼人が、花火の大きな音を怖がるかもしれないと思ったからだ。
でも少し前に行った遊園地のパレードで花火を見た彼ははまったく怖がるそぶりもなく、むしろ目を輝かせて見ていたから、連れてくることにしたのだ。
桟敷席はゆったりとしたスペースが取られていて、まだ小さい隼人がいても安全だ。
混雑を避けて、まだ明るいうちにここへ来て、お弁当を皆んなで食べていたら、隆之にあちらこちらから声がかかりはじめた。
当然といえば当然だ。
地元の花火大会の桟敷席なのだ。
地元の有力者たちの集まる場所と言っても過言ではない。そして彼らは皆隆之とビジネス上での繋がりがある。
そうなっては"プライベートで来ているから"と言って無視するわけにもいかず、今彼は、いくつかの席へ挨拶に行っている。
一方で、お腹いっぱいになった沙羅は少し退屈になったようだ。会場の向こうに見える夜店に興味津々である。
「だけどもう少しで花火が始まるよ」
隼人を抱いたまま沙羅の手を引いて人がたくさんいるところへ行く自信がない由梨は、なんとか彼女の気を逸らそうと試みる。でも彼女は納得しなかった。
「りんご飴、買ってくれるってお父さん約束したもん!」
「そうだけど……。お父さんが戻ってきたら連れていってくれるよ。もう少し待てる?」
「えー! だってお父さん、お仕事でしょ……」
そう言って沙羅はしょんぼりする。膨らんだ頬が可哀想で由梨の胸は痛んだ。
隼人が生まれることを、楽しみにしていた沙羅は、生まれてからもとても可愛がってくれている。
でも赤子がいれば、由梨ができることは限られてくるのも事実で、結果、我慢させてしまうことも少なくはなかった。
その分、父親である隆之がいる時は、めいいっぱい甘やかしてくれてはいるけれど……。
「……やっぱり、お母さんと行こうか。待ってね、はっくんを抱っこ紐に入れるから」
大変は大変だけど、できないことはないだろうと由梨が決心してそう言うと、沙羅は目を輝かせる。
「本当?」
「うん、ちょっと待ってね。お父さんにも連絡しておくから」
由梨がそう言って携帯を手にした時、隆之が帰ってきた。
「ごめん、由梨。あれ? どっか行くのか?」
由梨はホッと息を吐いた。
「沙羅が、お店の方に行きたいって言うの」
「お父さん、りんご飴! りんご飴‼︎」
沙羅が彼のシャツの裾を引っ張った。
「ああ、そうだったな。お父さんと買いに行こう」
隆之が答えて、沙羅を抱き上げ愛おしそうに彼女のこめかみにキスをする。
沙羅が不満そうに口を尖らせた。
「抱っこじゃなくても、沙羅自分で歩けるよ、もうお姉ちゃんなんだから」
『もうお姉ちゃんなんだから』は、最近の彼女の口癖だ。
弟が生まれて急にそういう気分になったようだ。外で歩いている時などに抱っこされると不満そうにする。
この間生まれたばかりのような気がするのに寂しいと思いつつ、由梨にとっては助かる場面も多かった。
隼人と沙羅を連れて大人は由梨ひとり、という状況で外出するときなどは、彼女に歩いてもらうしかないからだ。
でも父親である隆之にとってはただ寂しいだけのようで……。
「あっちは人が多いから、迷子になってしまうよ。お父さんの抱っこで行こう」
「沙羅、ちゃんとおててつなぐもん」
「それでも危ない。足元が見えないからお気に入りのサンダルが脱げてしまうぞ」
なにかと理由をつけては抱きたがる。今日の沙羅は新しい浴衣を着ていて特別に可愛いから、なおさらなのだろう。
とはいえ、彼の言うことはもっともだ。今夜の花火大会は、全国的にも有名で他県から泊まりがけで来る人もいるくらいなのだ。店がある方は随分と混雑している。
「沙羅、お父さんの言う通りにして? さっき来る時に見てたお面も買ってもらっていいから」
由梨が助け船を出すと、沙羅は途端に笑顔になった。
「お面も? やったあ!」
隆之の首に腕を回し、ご機嫌で頬を寄せる。隆之が嬉しそうに目を細めた。
そんなふたりに、由梨は思わずふふふと笑う。
彼女が生まれた時からずっと隆之は一緒にいる時は可能な限り沙羅を抱いていた。だから彼女にとって隆之の腕は自分専用の特等席なのだ。
居心地がいいのは間違いない。
「お父さん、早く早く」
沙羅が言って身体を揺らした、その時。
ドーン!と大きな音がして、光る大輪が夜空に散る。
観客から歓声があがった。
花火の打ち上げが始まったのだ。
「すごーい! きれーい!」
沙羅が夜空に手を伸ばす。
由梨の腕の中で、隼人も目をキラキラさせて「あまあまあま」と声を出した。
夜空に光る色とりどりの花を見上げなが、由梨はいつかの日のことを思い出していた。
加賀家の庭で隆之とふたり線香花火をしたあの夜のことだ。
仕事が入り花火大会へ行けなかったという出来事が、温かい思い出として由梨の胸に残っている。
あの夜の由梨は、きっと今が自分の人生で一番幸せな時なのだと思っていた。残念なはずの出来事を、幸せな思い出に変えられるくらい大好きな人と一緒にいられるのだから。
でもそれは違っていた、と今思う。
沙羅と隼人というかけがえのない存在に恵まれて、そのふたりの成長を彼と共に見守ることができている。
今はもっともっと幸せなのだから。
何気ない日常も。
ちょっとしたやり取りも。
彼と一緒なら、特別で大切なものに変わる。
ずっしりと重い腕の中の存在を感じながら、沙羅を抱いて花火を見上げる隆之の綺麗な横顔を見つめる。
隆之がこちらに気がついて柔らかく微笑んだ。