花時雨
うたかたの出会い
まだ外は暗いのに、なぜかはっきりと目が覚めた。
時刻は午前五時前。
もう少し寝ていたかったが、一度目が覚めたら眠れない体質のせいで、時間を持て余す。
この時間なら人も少ないだろうし、海にでも行こうか。
部屋を出て、向かいの扉を見つめる。
妹の部屋だ。まだ寝ているだろう。起こさないよう、ゆっくり静かに歩く。
俺は軽く身だしなみを整えて屋敷を出た。
もうすぐ夏が来る。もうすぐ、行楽シーズン。
いつもと違い、人気の無い街を新鮮に感じながら歩く。少し歩けば、すぐ海に出た。
――そして。
あなたを一目見たその瞬間、俺は恋に落ちた。
空を見上げるその姿は、まるで天女のようだと思った。
陽に溶けてしまいそうな、その透明感溢れる容姿をずっと見ていたいと思った。
そんな印象とは裏腹に。
不意に影が差すその瞳は、なにかどうにもならない、言葉にならない不安のようなものを湛えているように見える。
大きく空に手を伸ばして、溜まったものすべてを息に詰め込んで吐く姿が、切なく胸をつく。
ずっと見つめていたい。
それでも声をかける勇気が出なくて、最初は通り過ぎようとした。
彼女の目の前まで来ても、彼女は俺には気付かずに、くぁっ! と声を出して息を吐いた。
「ふふっ……」
その姿があまりに可愛らしくて、堪えきれずに笑ってしまった。
ようやく彼女は俺に気付き、元々大きな瞳がさらに大きく見開かれた。
恥ずかしさに、徐々に顔を赤く染めていく彼女と目が合う。
吸い込まれるような、驚くほど澄んだ瞳をしていた。まるで、この澄み渡る空気を溶かして固めたガラス玉のような瞳。
「あ……すみません」
謝ると、じっと彼女が見つめてくる。
まるで瞳で口付けるように、俺も彼女を見つめ返した。
時が止まったように感じた。
「あなたが可愛くて、つい」
彼女は一瞬、何を言われたのか分からなかったのか、固まった。
そんな姿すら可愛らしいと思ってしまう。
この人はとても純粋で、まっすぐな人なんだろう。たとえば占いでもなんでも、コロッと信じてしまいそうな人だ。
俺のような、こういう悪い男の甘言も。
「……はぁ」
彼女が呆れたような視線を向けてくる。
ナンパだと思ったのだろう。
「おひとりですか?」
ほんの一瞬、返事をするかどうか戸惑うような仕草。瞳が正直に揺れていた。
「……まぁ」
小さく頷く彼女に、
「よければ、案内しましょうか」
思うより先に、口が動いていた。
若干疑いの視線を向けてきながらも、彼女は頷いてくれた。
その声にも、いちいち胸が鳴る。
早朝から見ず知らずの女性を誘うなど、妹が知ったらきっと呆れるだろう。
我ながら余裕が無い。
彼女の返事に心が弾んだ次の瞬間、奇妙な音が辺りに響いた。
――ぐうぅるる。
それが彼女が鳴らした音だと理解するのに、少し時間がかかった。
どうやら彼女はお腹が減っているらしい。
よくよく見れば、顔色もあまり良くない。
目の下にはクマがはっきりと刻まれ、思い返せば歩き方も片足を庇っているような歩き方だった。
彼女は茹でダコのように真っ赤になっていた。
とりあえず、話題を変えよう。
「お名前を聞いても?」
「……葛城寧々」
「私は楪羽といいます」
「それ名前? それとも苗字?」
寧々さんは不思議そうに見上げてくる。
そう小さく呟くその唇に、つい目がいってしまう。
柔らかそうなその唇に、触れたい衝動がこみ上げる。
「名前です。寿楪羽といいます」
そういいながら、咄嗟に歩き出して気分を誤魔化した。
「歳は?」
寧々さんが聞いてくる。
「二十五です」
そう言った途端、寧々さんの表情があからさまに曇った。
……なるほど、年上か。分かりやすい人だ。
確かめたい気持ちもあったが、さすがに初対面の女性に歳を聞くほど無神経には育っていない。
それからしばらく、寧々さんはなにか考え込むように黙ったままだった。
その横顔には、疲れや不安、迷いが浮かんでいる。色んな感情がないまぜになって、わけの分からない暗い闇が彼女の心を蝕んでいるような気がした。
俺は気の利いた言葉も見つからないまま、歩き続けた。
「ここです」
そして、俺が営む喫茶店『|徒然草(つれづれぐさ)』に着く。
「え?」
考え込んでいたところを突然話しかけられ、驚いたように寧々さんは顔を上げた。
「私の店です」
「えっ!?」
再び寧々さんは驚きに声を上げ、俺を見る。
鍵を開け、店に入った。
「なんでも好きなもの作りますよ」
寧々さんをカウンターに座らせ、メニューを渡す。
「なにがいいですか?」
心做しか、彼女の瞳は潤んでいるように見える。
「……じゃあ、オムライス」
……うん。可愛らしい。
「案外お子様趣味ですね」
「なっ!?オムライスをバカにしたわね!?」
寧々さんはムキになって立ち上がる。
その仕草があまりに可愛くて、急に年下のように思えた。からかうたびに反応してくれる彼女に、思わず笑む。
「ははっ」
この人といると、つい自分が出てしまう。
調子を狂わされるのは嫌いなはずなのに、なぜだか彼女といるのは心地よく感じていた。
「非常識なことを言ってもいいでしょうか」
「なに?」
寧々さんが真っ直ぐに見据えてくる。
「うちに来ませんか」
言ってしまった。けれど、止められなかった。
だってあなたが、あまりにも苦しそうに見えたから。どうにかして、守ってやりたくなった。
ずっと感じていた違和感。人目を引く容姿。どこまでも通りそうな高く澄んだ声。
彼女は、いつか配信されていた舞台に出ていた女優だ。
そんな人が、旅行先でナンパしてきた男にこんなことを言われても、迷惑でしかないだろう。
……軽蔑されるのだろう。
そう思ったのに。
「……いいよ」
大きな瞳を揺らしながら、寧々さんはそう言った。
あまりの驚きに、玉ねぎを切っていた手が止まる。
今にも消えてしまいそうなほど華奢で薄い体。
儚い花のようで、そっと抱き締めてやりたくなる。
あなたは何を悩んでいるの? なにがあったの?
全部、知りたい。助けになってやりたい。
最近、あまり舞台で見ないその姿。
二人歩いていた時、片足を庇って歩く姿。
そもそも役者を心から楽しんでいたら、往復一週間もかかるこんな島を旅行先に選びはしないだろう。
でも、俺はついさっき出会っただけのナンパ男だ。
……きっと、変に思われるだけだ。
「……仕事、辞めるつもりなんですか」
言ってから、しまったと思った。
部外者が口を挟むことじゃない。
「え?」
寧々さんは俺の言葉に硬直している。
それでも、自分の口が別人のもののように止まってくれない。
寧々さんの芸名。名前は確か「結城凜子さん」
「……気付いてたの?」
「あなたは有名な方ですから」
「でも辞めるって、なんで」
誰にも相談していなかったのか、それとも出来なかったのか。彼女は心から驚いている顔をしていた。
「全部顔に書いてありますよ」
「そんなに辛気臭い顔してた?」
自分の頬を、両手でパッと挟む仕草をする寧々さん。
「海辺に旅行客がいると思ったら、あんまり酷い顔をしていたものですから」
そう言うと、徐々にその手が弱々しく下へ滑っていく。
その表情は暗く落ち込んでいた。
「仕事を探しているなら、うちに来てください。ちょうどバリスタを探していたところなんですよ」
咄嗟に嘘をついた。
ここの仕事は一人で十分間に合っている。
それでもその表情を見た瞬間、寧々さんの居場所を作ってあげたくなって。
「さっきのって、そういう意味だったの!?」
いや、そういうつもりではなかった。しかし、今さら訂正はできない。
呆れた表情を浮かべ、あたかも最初からそうであるかのように寧々さんを見る。
「あなたはどういう解釈をしたんです?」
「……ごめん。てっきり、そういうお誘いかと……」
心の中で自分を殴る。寧々さんの言う通り、そのつもりだったのに……。なんて愚かな、自分。
寧々さんを見ると、またも茹でダコになっていた。
「でも……いいとおっしゃいましたね。あなたはさっき」
意地悪な笑みを浮かべる。
初心で素直な寧々さんを、ついからかいたくなってしまう。
「違うわよ! あれは……間違えたの!」
慌てながら言い訳を探す姿も可愛らしい。
「ふふ」
笑い声が口をつく。
「あんたのそのなんでも見透かしたような顔、気に入らない!」
ムキになって吠える寧々さんは、まるで臆病な小型犬のようだ。
「おや、まぁ」
「あんたも言ったからね! 私がほんとに辞めたら、雇ってくれるんでしょうね!?」
まったく、この人は。
どこまで俺を落としにかかれば気が済むのか。
もういっそ、オオカミになってやろうか。
その生意気な口を塞いでやりたい。
迸る熱い情動を、グッとこらえる。
「えぇ、もちろんです。ただ……あなたをまた舞台で見たいというのも、私の本音といえば本音なのですが」
とりあえず、キャンキャン吠えていた小型犬は静かになった。
戸惑うように目を泳がせている。
心臓が大きく脈を打つ。心が警鐘を鳴らす。
言っちゃダメだ。
離したくないのなら。
「あなたは、スポットライトの差す舞台の上がとても似合っていましたから」
その瞬間、さっきまで血気盛んに吠えていた寧々さんが、今度は泣き出した。
「ねぇ、私……どうしたらいいと思う? 可愛がってた後輩に騙されてオーディション受けられずに終わって、主演はパー。それでも次があると思って自主練してたら足を挫いて、主演どころか舞台にすら上がれなくなった。劇団の人たちの間では、変な噂が流れてみんな離れてっちゃった」
寧々さんは、ずっと胸に詰まっていた言葉を吐き出した。
打ち明けてくれたことに嬉しさが滲む。
同時に、やはり彼女を引き止めることは出来ないのだと悟った。
離したくない。このまま、自分のものにしてしまいたい。
帰したくない――。
彼女を手放したくなくて、なんと言ったらいいのか心の中で葛藤していると、
「ごめん……急に。ごはん、やっぱりいいや。私、帰るね」と、涙を隠すように足早に去っていこうとする。
寧々さんの後ろ姿を見た時、どうしようもない焦燥感が全身を駆け巡った。
引き止めようと、身体が反射的に動いていた。
ドアノブを握るその腕を掴み、そのまま抱き寄せる。
「……ごめんって。お金は払うよ」
なにを勘違いしたのか、寧々さんはトンチンカンなことを言ってくる。
「いりませんよ。今さら食べろともいいません」
「じゃあ、なに?」
「……ただ、こうしたくなっただけです」
そう伝えると、さらに強く抱き締めた。
寧々さんが上目遣いで俺を見る。
もう、限界だった。
寧々さんに微笑みかける。
その整った唇に、キスを落とした。
何度も何度も。愛を訴えるように口付けた。
寧々さんが背中に手を回してくる。
それが、合図だった。
――このまま、永遠に時が止まればいいのに……。
……それから、どれくらい経っただろう。
気付くと、外から人の気配が感じられた。
学生の笑い声に驚き、寧々さんはハッとしたように乱れた服を整えている。
その姿を見て、言葉にならない気持ちになる。
あぁ……もう、タイムリミットなのか。
寂しさが心を侵食していく。
「……帰るのですか?」
心が張り裂けそうだった。
行かないで。
そう懇願したら、寧々さんはどう思うだろう。
「……うん」
寧々さんは、気まずそうに目を逸らして頷く。
どうにか彼女を引き止めたくて、必死に言葉を探す。けれど、なにも浮かんでこなかった。
心の中で精一杯行かないでと叫びながら、
「また、来ますか?」と違う言葉を口にする。
寧々さんは「分からない」と言った。
心がぎゅっと、悲鳴をあげる。
……いつもそうだ。
結局人は、離れていく。どれだけこちらが愛しても、いつも一方通行で。
この虚無感は、いつになったら無くなるのか……。
まだ、寧々さんに想いを伝えなくてよかった。
気持ちを伝えてたらきっと、ずっとあなたを忘れられない。
ゆっくり目を伏せる。
「……でも」
寧々さんの声が耳に響く。
「役者辞めたら、雇ってくれるんでしょ?」
予想外の言葉に、胸が引き絞られる。
この人は、どこまで俺を期待させるんだ。
そんなことを言われたら、もう忘れられない。
あなたにとっては、ただの火遊びと変わらないかもしれないけれど……俺は……。
「いつまでも待ってますよ」
今の俺が言える、精一杯の言葉だ。
あなたはここを居場所だと思って、仕事を頑張ればいい。
気が向いたらいつでも来られる、羽休めの場所だと。
本心は違う。
俺は本当にあなたを待っていたい。
本当は伝えたい。
あなたが好き。
けれど……あなたのその瞳は、役者の仕事を心から愛しているようだったから。
辛くても、嫌なことがあっても捨てられないものなんだと、その瞳が訴えていたから……。
この想いはぐっと飲み込んで。
気持ちをまるごと、そっと胸の奥にしまい込む。
きれいに、お別れを――。
寧々さんの居なくなった店でひとり立ち尽くす。
この手にはまだ、彼女の温もりが残っている。
彼女の温もりに口付けるように、自分の手にキスを落とした。
みっともないくらいに彼女の残像を探している自分に苦笑する。
今なら、まだ間に合う。
今なら、引き止めることができるかも――。
気を抜くと気持ちが引きずられていきそうになって、ハッと我に返る。
未練がましい自分に嫌気がさす。
幼稚で馬鹿げた考えを振り払うように首を振り、外に出る。
どこまでも澄んだ青空がつづいていた。
見上げた先には、大きな白い太陽がぽつんと寂しげに浮かんでいる。
店の脇にある桜の木が、ざわっと葉の音を鳴らす。
巨木を見上げると、青い葉がふわりと風に揺れていた。