世界樹の下で君に祈る
第8話
「砂漠の真ん中にポツリと立つ世界樹は、とても不思議な存在なんだ。俺たちはその姿を見ただけで、安心する。生きているという実感を取り戻す。旅の仲間に聖女がいれば、樹の周辺には魔物も現れない。過酷な環境から、生を取り戻したような感覚になるんだ。魔物を呼び寄せる魔樹から、命を救う樹に変える、そんな能力を持つ乙女たちが、王の子でありながら城にいられないなんて、おかしいじゃないか」
リシャールが顔を上げる。
その視線の先には、エマお姉さまが世界樹の庭へ行くためにいつも通る回廊があった。
「だから、俺はエマさまに目をつけた。伝統ある由緒正しい国のお姫さまで、しかも聖女だ。高嶺の花とはいえ、俺だって身分的に申し分ないだろう?」
その回廊を、聖女たちの隊列が通ってゆく。
祈りの時間は決められているから、決まった時間にここに出ていれば、必ず姿が見られる。
真っ白な衣装を着て歩くその隊列の中に、お姉さまの姿はなかった。
今日の礼拝の当番ではなかったのだろう。
リシャールの紅い目は、それでも過ぎてゆく白い隊列を追いかけていた。
「美しい人だと思った。俺の妻となるに相応しい人だと。レランドは新興国家でブリーシュアの財力に劣るかもしれないが、降嫁先の条件としては悪くない。もちろん簡単に進む話ではないと分かっていた。だがそれでも、こんなにも思い通りにならないとは、思わなかったな」
彼は丸い円形広場の、芝生の上に腰を下ろした。
繋いだ手に引かれ、私も隣に並ぶ。
「好きとか嫌いだとか、そんなものは必要ないと思った。俺たちにとっての結婚なんて、そんなもんだろ。だったら一番有効で利益ある、いい結婚にしたいと思っていた。どんな国に生まれても、王族なら同じことを考える」
秋が近づき少し涼しくなった風が、ぽっかりあいた王城の隙間のような庭に流れ込んでくる。
繋いだままの手は、どこまでも彼の体温を伝えてくる。
「正直な話、エマさまじゃなくてもよかった。身分があり聖女であるなら、誰でもよかった。それを調べ上げたら、丁度いい相手が、エマさまだったってだけで」
「お姉さまには、マートンがいるわ」
「やっぱり君も、ああいうのが好みなのか?」
マートンのことは、ずっと好きだった。
お姉さまとの関係に気づいてからも、私の求める理想の相手、そのものだった。
「君の好みがアレだというのなら、やはり諦めるしかないな。俺はマートン卿にはなれない」
繋いでいた温かな手が離れる。
彼は芝生の上にごろりと横になった。
急に涼しくなった風が頬を撫でる。
「マートンは、私にとって理想の相手であり憧れの方だということです。たとえ彼の想う相手が別の方であったとしても、この気持ちに変わりありませんわ」
「そうか。それは残念だ」
芝生に寝転がる、この人の隣に私も横になった。
彼の求める相手が聖女だというのなら、私も聖女にはなれない。
「あなたにもきっと、そのうちよい相手が見つかりますわ。演技なんてなさらなくても、そのままで十分素敵でした」
「はは。それでも俺は、演技を続けるよ。それも俺の一部だ。気になる相手に振り向いてもらおうと思えば、多少は自分の見せ方というのにも、工夫は必要だろ」
「気になるお相手が、他にもいたのですか?」
「まぁね。だがその方に合わせたやり方というのが、最後まで分からないままだ」
知らなかった。
どんな人だろう。
聖堂の乙女?
城内で知り合った他の人?
それとも、レランドの国内に残してきたとか……。
寝転がったリシャールが、紅い目を閉じる。
仰向けになっている彼の手に、自分の手を重ねた。
次にこの手に重ねる人は、どんな人だろう。
「……。その方が、うらやましいですわ。あなたのような方に愛されるのなら」
「そうかな。もしそうなら……。そうだと、いいな」
空に向けられた目は閉じられたままで、彼は遠いどこかへいる人に向かって話しているようだった。
「レランドに帰る。国から連絡が入った。戻ってこいって」
寝転がったこの人の手に、重なる自分の手を見ている。
いつかそうなることは分かっていた。
だからそんな言葉にも、動揺したりなんかしない。
私は起き上がると、頬にかかる髪をかきあげた。
彼の手がぎゅっと私の手を掴む。
紅い目は閉じられたままで、私は彼の眠っているような顔の輪郭を、視線でなぞっている。
「近々、城で送別会が開かれるだろう。そこに君も来てくれるか?」
指と指が絡み合う。
もう二度と、綺麗に丸まったこの爪の先を、これほど間近に見ることもないのだろう。
彼の整えられた爪の先に、指をそっと這わせる。
「もちろん。お別れの挨拶くらいさせていただきますわ」
「ありがとう」
その言葉を最後に、彼は動かなくなってしまった。
わずかに開いた唇の隙間から、かすかな寝息が聞こえてくる。
「エマお姉さまじゃなくていいの?」という言葉が何度も何度も頭に浮かんでは、それを無理矢理消し去っている。
最後の最後まで、自分で自分を傷つける必要もないにちがいない。
涼しくなった空気の上から、温かい日差しが照りつけている。
重ねた手はそのままで、私ももう一度横になると目を閉じた。
ウトウトとまどろみながら、この先のことなんて何にも思いつかない。
もしも願いがあるとすれば、このままずっとここで眠り続けることだ。
ぽかぽかと温かい日差しに、意識が遠のいてゆく。
聞き慣れた侍女の声に、ふと目を覚ました。
「ルディさま! このようなところでお休みになるなんて!」
時間としては、ほんのわずかだったと思う。
侍女は私の上にバサリとブランケットをかけた。
「城中から丸見えですよ。お二人ともこんなところで、何をしていらっしゃるんですか!」
リシャールの方にも、いつも一緒にいる従者のダンが駆け込んで来た。
「おいおい。いくらなんでも自由過ぎるだろ。二人とも」
彼の声に、リシャールもようやく起き上がる。
「風邪ひくぞ」
「ひかねぇよ」
リシャールは寝ぼけたような顔で、こちらを振り返った。
何かを言いかけるように口を開いて、すぐ閉じる。
「ではこれで、失礼する」
こんなところでカッコつけたって、今さらどうしようもないのに。
彼はのろのろと立ち上がると、ダンに引き取られるようにして行ってしまった。
「ルディさまも早くお立ちを! こんなところで、いくらお相手がリシャール殿下とはいえ、度が過ぎます!」
「ごめんなさい。私もうっかりしていたのよ」
回廊や部屋の窓から、城中の人がこちらを見て見ぬふりをしている。
注目されることには慣れているけど、急に恥ずかしさがこみ上げてきた。
「少し部屋で休みます」
肩にかけられたブランケットを引き寄せる。
ふと立ち止まり振り返っても、もうそこに誰も残ってはいなかった。
リシャールが顔を上げる。
その視線の先には、エマお姉さまが世界樹の庭へ行くためにいつも通る回廊があった。
「だから、俺はエマさまに目をつけた。伝統ある由緒正しい国のお姫さまで、しかも聖女だ。高嶺の花とはいえ、俺だって身分的に申し分ないだろう?」
その回廊を、聖女たちの隊列が通ってゆく。
祈りの時間は決められているから、決まった時間にここに出ていれば、必ず姿が見られる。
真っ白な衣装を着て歩くその隊列の中に、お姉さまの姿はなかった。
今日の礼拝の当番ではなかったのだろう。
リシャールの紅い目は、それでも過ぎてゆく白い隊列を追いかけていた。
「美しい人だと思った。俺の妻となるに相応しい人だと。レランドは新興国家でブリーシュアの財力に劣るかもしれないが、降嫁先の条件としては悪くない。もちろん簡単に進む話ではないと分かっていた。だがそれでも、こんなにも思い通りにならないとは、思わなかったな」
彼は丸い円形広場の、芝生の上に腰を下ろした。
繋いだ手に引かれ、私も隣に並ぶ。
「好きとか嫌いだとか、そんなものは必要ないと思った。俺たちにとっての結婚なんて、そんなもんだろ。だったら一番有効で利益ある、いい結婚にしたいと思っていた。どんな国に生まれても、王族なら同じことを考える」
秋が近づき少し涼しくなった風が、ぽっかりあいた王城の隙間のような庭に流れ込んでくる。
繋いだままの手は、どこまでも彼の体温を伝えてくる。
「正直な話、エマさまじゃなくてもよかった。身分があり聖女であるなら、誰でもよかった。それを調べ上げたら、丁度いい相手が、エマさまだったってだけで」
「お姉さまには、マートンがいるわ」
「やっぱり君も、ああいうのが好みなのか?」
マートンのことは、ずっと好きだった。
お姉さまとの関係に気づいてからも、私の求める理想の相手、そのものだった。
「君の好みがアレだというのなら、やはり諦めるしかないな。俺はマートン卿にはなれない」
繋いでいた温かな手が離れる。
彼は芝生の上にごろりと横になった。
急に涼しくなった風が頬を撫でる。
「マートンは、私にとって理想の相手であり憧れの方だということです。たとえ彼の想う相手が別の方であったとしても、この気持ちに変わりありませんわ」
「そうか。それは残念だ」
芝生に寝転がる、この人の隣に私も横になった。
彼の求める相手が聖女だというのなら、私も聖女にはなれない。
「あなたにもきっと、そのうちよい相手が見つかりますわ。演技なんてなさらなくても、そのままで十分素敵でした」
「はは。それでも俺は、演技を続けるよ。それも俺の一部だ。気になる相手に振り向いてもらおうと思えば、多少は自分の見せ方というのにも、工夫は必要だろ」
「気になるお相手が、他にもいたのですか?」
「まぁね。だがその方に合わせたやり方というのが、最後まで分からないままだ」
知らなかった。
どんな人だろう。
聖堂の乙女?
城内で知り合った他の人?
それとも、レランドの国内に残してきたとか……。
寝転がったリシャールが、紅い目を閉じる。
仰向けになっている彼の手に、自分の手を重ねた。
次にこの手に重ねる人は、どんな人だろう。
「……。その方が、うらやましいですわ。あなたのような方に愛されるのなら」
「そうかな。もしそうなら……。そうだと、いいな」
空に向けられた目は閉じられたままで、彼は遠いどこかへいる人に向かって話しているようだった。
「レランドに帰る。国から連絡が入った。戻ってこいって」
寝転がったこの人の手に、重なる自分の手を見ている。
いつかそうなることは分かっていた。
だからそんな言葉にも、動揺したりなんかしない。
私は起き上がると、頬にかかる髪をかきあげた。
彼の手がぎゅっと私の手を掴む。
紅い目は閉じられたままで、私は彼の眠っているような顔の輪郭を、視線でなぞっている。
「近々、城で送別会が開かれるだろう。そこに君も来てくれるか?」
指と指が絡み合う。
もう二度と、綺麗に丸まったこの爪の先を、これほど間近に見ることもないのだろう。
彼の整えられた爪の先に、指をそっと這わせる。
「もちろん。お別れの挨拶くらいさせていただきますわ」
「ありがとう」
その言葉を最後に、彼は動かなくなってしまった。
わずかに開いた唇の隙間から、かすかな寝息が聞こえてくる。
「エマお姉さまじゃなくていいの?」という言葉が何度も何度も頭に浮かんでは、それを無理矢理消し去っている。
最後の最後まで、自分で自分を傷つける必要もないにちがいない。
涼しくなった空気の上から、温かい日差しが照りつけている。
重ねた手はそのままで、私ももう一度横になると目を閉じた。
ウトウトとまどろみながら、この先のことなんて何にも思いつかない。
もしも願いがあるとすれば、このままずっとここで眠り続けることだ。
ぽかぽかと温かい日差しに、意識が遠のいてゆく。
聞き慣れた侍女の声に、ふと目を覚ました。
「ルディさま! このようなところでお休みになるなんて!」
時間としては、ほんのわずかだったと思う。
侍女は私の上にバサリとブランケットをかけた。
「城中から丸見えですよ。お二人ともこんなところで、何をしていらっしゃるんですか!」
リシャールの方にも、いつも一緒にいる従者のダンが駆け込んで来た。
「おいおい。いくらなんでも自由過ぎるだろ。二人とも」
彼の声に、リシャールもようやく起き上がる。
「風邪ひくぞ」
「ひかねぇよ」
リシャールは寝ぼけたような顔で、こちらを振り返った。
何かを言いかけるように口を開いて、すぐ閉じる。
「ではこれで、失礼する」
こんなところでカッコつけたって、今さらどうしようもないのに。
彼はのろのろと立ち上がると、ダンに引き取られるようにして行ってしまった。
「ルディさまも早くお立ちを! こんなところで、いくらお相手がリシャール殿下とはいえ、度が過ぎます!」
「ごめんなさい。私もうっかりしていたのよ」
回廊や部屋の窓から、城中の人がこちらを見て見ぬふりをしている。
注目されることには慣れているけど、急に恥ずかしさがこみ上げてきた。
「少し部屋で休みます」
肩にかけられたブランケットを引き寄せる。
ふと立ち止まり振り返っても、もうそこに誰も残ってはいなかった。