稼げばいいってわけじゃない
第24話
パッと目が覚めたら、
晃がベッドから立ち上がり
タバコを吸いにテーブルに置いた
電子タバコの本体を持ち上げる姿を
横から絵里香は見ていた。
ふわふわベッドで
体の右には瑠美が
左のベッドには塁がふとんを剥いで
うつ伏せに寝ていた。
そんな当たり前の風景が
朝起きたときに
見るんだろうなと
朝の景色が頭に思い浮かんだ。
寝ぼけてるんだろうなと
もう一度
そのまま目を閉じて
眠った。
夢って現実と同じようなことが
起きるだとハッとした。
今のは全部夢だった。
左腕を伸ばして
首を左に向けたら
夢と同じで塁はうつ伏せ寝に
右にはすやすやと瑠美が
安心して眠っていた。
こんなゆっくりとした時間が
流れているなら
このまま止まっていてほしいと
願った。
絵里香は体を起こして
トイレに行った。
部屋の中を見渡すと
あるものがなかった。
晃はきっとタバコを
吸いに喫煙所に行ったんだろうなと
予測していたが、
部屋の端っこに置いていた
キャリーバッグが1つ
なくなっていた。
(あれ、ここに
晃のキャリーバッグおいてたと
思ったけど、無いな。)
晃もどこに行ったのか
姿が見えなかった。
絵里香は気になって、
急いで浴衣から洋服に着替え
寝癖のある髪を適当にとかした。
子どもたち2人が眠る部屋の鍵を閉めて
喫煙所にいるかもしれないと
ルームキーを持ちながら
行ってみた。
同じくホテルに、泊まっていた
数人のお客さんが喫煙室で
談笑していた。
晃の姿は見えない。
ここまで来るのにすれ違ったのかなと
絵里香は思ったが、
部屋に戻っても晃はいなかった。
テーブルの上には車の鍵と家の鍵が
ついたキーケースだけが置かれていた。
置き手紙もない。
スマホのメッセージや着信履歴も
確認したが
何もなかった。
昨日あんなに愛し合ったのに
記憶違いだったかなと
頭の中で
いろんなことを思い出してみる。
何がいけなかったんだろう。
結局、その日は
晃が家族の元に帰ってくることは
なかった。
そもそも、これから先
どうやって生活していくかを
考えていこうと言う時に
晃は絵里香の目の前から姿を消した。
もう、嫌だったのかもしれない。
会社から戻ってきても良いって言葉に
甘えて引っ越す作業もしなくていいと
考えたらそのままがいいと。
でも、絵里香は世間的にさらしては
いけない行動を犯してしまった。
前の家には戻れない。
子どもたちの学校や幼稚園にも
絵里香の居場所はない。
後ろ指をさされながら生きるのは
辛すぎる。
仕事も辞めてしまって
収入源は晃の働いた分しか無い。
でも、頼りの綱の晃がいない。
住む場所も決めていない。
広い砂漠の地に
家族3人放り投げられたような気分だ。
もう、考えるのも疲れた。
この世界で生きて何が楽しいのか。
「お母さん、
お父さんは
どこ行っちゃったの?」
「わからない。
お仕事かな。」
「え、仕事なら、
職場に行けばいいじゃないの?」
「ごめんね、お母さん、
その気力さえないの。
ここ、福島だし、
お父さんの職場は仙台だし。」
無言でメッセージも
残さずに行くということは
探さないでということだろう。
絵里香は、後部座席に瑠美を、
助手席に塁を乗せた。
ホテルの宿泊代は
晃名義のカードで支払いは済ませて
あったようで
何も払う必要がなかった。
お金の心配はなかった。
でもそれでいいのか。
荷物をトランクに積んで、
車のエンジンをかけた。
いつもなら、運転席に晃が座るのに
頼りになる夫は今はいない。
ハンドルを握って、
絵里香は
ある場所に車を走らせた。
やはり、
これは自分の生きる
空間を変えなければと
生まれ育った実家へと
子どもたち2人を連れて向かった。
断れるのを覚悟の上だった。
「あら、来たの?」
母は相変わらずのトゲのある言い方で
3人を出迎えた。
今日は日曜日。
仕事は休みで絵里香の父と母は
庭の手入れをしていた。
雑草でいっぱいになった庭を
綺麗に芝刈りを使って
整えていた。
「庭、手入れしてたんだね。
まだまだ元気に動けるじゃん。」
絵里香は、
玄関を開けて何も言わずに
持っていたすべての荷物を置いた。
「これでも栄養ドリンク飲んで
頑張って体動かしてんのよ。
年とればとるほど
思ったように体は動いて
くれないからね。」
「そうなんだ。」
「ほら、絵里香も一緒に
庭の手入れするぞ。」
「いや、遠慮する。
子どもたちに
やらせたらいいじゃない。
立派な社会勉強。」
「そうだな。
そういや、子ども用軍手あるぞ。」
耕太郎は
物置から前もって買っておいた
子ども軍手を用意した。
「わーい。私もやる。」
「僕もー。」
珍しく喜んで、
耕太郎の元に駆け寄っていく
子どもたちにほっとした。
美那子も自分の仕事があると
思ってホッとしている。
「んじゃ、私、買い物いってくるね。
子どもたちのことお願い。」
「買い物?
一緒に連れてけばいいのに。」
「いいじゃん。たまには。」
「いいの。
僕たちじいじたちとここにいるの。」
「えー、
私はお母さんと買い物行きたい。」
「良いから、草取り手伝って。
やってくれたら、ご褒美にアイス
ごちそうしてあげるよ。」
「本当?
んじゃ、がんばるよ。」
瑠美はアイスのためだと
気合いを入れて草取りをした。
車のドア越しに2人が仲良く
庭の手入れしていることに
安堵した。
これで大丈夫。
「んじゃ、行ってきます。」
車の運転席のドアをバタンとしめた。
気持ちとは裏腹に外は雲ひとつない
天候に恵まれていた。
取り繕った買い物なんて
もうしなくてもいい。
何のためにしなくちゃいけないのか。
もう、あの子たちの居場所はある。
むしろ、私の居場所がないだけ。
無理して生きていても
辛いだけ。
母親として役目はもうないんだ。
父親を留めておけなかった
自分の責任。
視野が狭かった。
今はどんなに
優しい言葉をかけられても焼石に水。
絵里香の耳には聞こえてこない。
晃がここにいないのはなんでだろう。
どうして晃を好きになったんだっけ。
寝癖をぴょんとつけて
大学の帰りに会ったとき、
頭が良いのに少し抜けてる
ところとか。
背負っていたリュックのチャックが
開いているのをさりげなく
直してくれるとか。
目の近くにあるほくろとか。
鼻筋がシューと通っていて
女性の絵里香よりも長いまつげとか。
何も言わなくても
空気読んで
行動してくれる優しさとか。
本当は知っていた。
晃のいつも悪いところばかり
揚げ足取ってたマウントを
取っていたけど
仕事で忙しくても
たまに溜まっていた
洗い物してくれた。
洗濯物だって、言わなくても
干してくれるときだってあったし。
平日はまるっきりする時間ないから
料理はしてくれないけど
休みの日の日曜日に作ってくれた
目玉焼きとウィンナーの野菜炒め。
あれは
大したメニューじゃなかったけど
すごく美味しかったのを覚えている。
どうして、
さりげない仕草とか行動が
いいところが
たくさんあったのに
忙しさにかまけて
全然気づいてないふり
してたんだろう。
失った時に気づく晃の優しさが
鮮明に思い出される。
次、生まれ変わったら
また晃のそばで生きていきたい。
妻という存在で成り立たないなら
別な形でもいい。
今の時代、今の世界じゃない
ここではないどこかにいきたい。
絵里香は電車が行き交う陸橋の上で
白昼堂々、手すりにバランスを取って
飛び越えようとした。
昼間だというのに
まばらに人はいても
助けようとする人はいなかった。
ドラマやアニメのように
ギリギリで助けるなんて
ありえない。
むしろ、他人に関わるって
重い。
誰も見向きもしないんだ。
今を生きてることで精一杯。
そんなのわかってる。
でも少しくらい期待しても
いいじゃない。
行き交う電車の上に身を投じた。
ーーー夜のニュースで報道された。
「駅近辺の陸橋にて
人身事故が発生しました。
列車にはねられた女性は
全身を強く打ち、
その場での死亡が
確認されました。
これにより電車の遅延と
なりましたが、
その20分後に再開されました。
警察は亡くなった女性の
身元を調べるとともに
事故の状況を詳しく
調べています。」
テレビやラジオ、ネットニュースでも
その情報は流れた。
瑠美と塁は、
そのまま母の帰りを待ちながら
庭の手入れを続けていた。
祖母の美那子は、電話で一報を聞くと
血相を変えて耕太郎に抱きついて
泣いた。
どうして、絵里香と
しっかり向き合えて
いなかったんだろうと
自分自身を悔いた。
瑠美と塁は横で泣く美那子を
ヨシヨシと撫でた。
美那子は真実を口が裂けても
今は2人に報告することが
できなかった。
葬式を行うときにはさすがに
現実を見なくてはいけないため
瑠美と塁も信じられなかったが
淡々と式に参列していた。
真新しく買った子ども用の喪服。
ピシッとしていて
息苦しかった。
涙を流しても
拭ってくれるのは母ではない。
祖母や祖父では
満足しない。
お坊さんのお経と木魚が響く。
どうして僕たち 私たちを
置いていくの。
もう、そう叫んでも、
棺の中に入った
絵里香の体は夏だというのに
ひんやりと冷たくなっていて
ぴくりとも
動かなかった。
連絡先を途絶えた晃は
絵里香の葬式があることさえも
知らずに生きていた。
突然任せられた孫育て
絵里香の
母 美那子と父 耕太郎は
神様から与えらえた試練なんだと
現実を受け入れた。
今度は子育てじゃなく孫育てだなと
切り替えて気合いを入れた。
****
それから4年もの月日が流れた。
「西條、その書類できた?」
パソコンが並ぶ会社のデスク。
電話のコールが鳴り響く。
いつも通りの風景が流れていた。
榊原晃は平然と仙台のの職場で
前と同じ課長という肩書きで
過ごしていた。
新しい場所、新しい人間関係に
異動するというストレスと
引越し作業を自分以外のもの
全部するというストレスから
解放されたかった。
そして何より、
もう絵里香に対する想いは
ホテルで過ごしたあの時から
消えていた。
やっぱり男だから
胸は小さいより大きい方がいいし、
体の相性とか心の相性とか
子どもの性格の相性とか
金銭感覚とか
いろんなことを考えて
不倫や浮気をしないであろう
ふわふわしてない一途な人がいいなと
前から沸々と考えていた。
小松果歩は、生まれてからこれまで
彼氏ができたことがないと
言っていたし、
初めては自分だったと言っていた。
その言葉を信じたいと
もうドロドロした
喧嘩別れもしたくないし、
面倒だなと思って黙って
ホテルを飛び出してきた。
何もかもが面倒になっていた。
目の前のことに
必死で周りなんて考える余裕が
なかったのだ。
「課長、また、休憩時間
とってないですよ。
体に毒だから。」
小松は課長のデスクに入れたての
コーヒーを置いた。
「おう、さんきゅー。
わかってるよ。
んじゃ、休憩行ってこようかな。」
ポケットに入れておいた
紙たばことライターを取り出した。
少しコーヒーを飲んで
喫煙所に向かおうとした。
「あれ、課長、
電子タバコじゃなかった
でしたっけ。
変えた?」
「ああ。俺、我慢しないって
決めたから。
税金払って
市税を潤してるって
思ったら、
全然、募金してるってことで
よく取ってる。」
「良い解釈ですね。
まぁ、募金はいいですけど
体に毒だってことは忘れない方が
いいんじゃないですか?」
「ストレスが1番毒なの!」
「そうでしたね。」
小松はため息をついて
デスクに戻った。
鼻歌をうたいながら
晃は喫煙所に向かった。
ふと、デスクに戻った小松は、
体の違和感を覚えた。
口をおさえて
トイレに駆け込む。
「あれ、小松さん、
どうしたんすか?」
西條は小松の走っていく姿を見送った。自分の声は届いてないようだ。
(気持ち悪い。
昨日食べた刺身にあたったかな。
でも、買ったばかりだし。
それとも今朝食べたたまごかな。
晃、いつもたまごって言うから
ストックしてたたまごいつ買ったか
わからないんだよなぁ。)
トイレの個室の中で
ブツブツ唱えながら独り言を
言っていた。
ふとスマホのカレンダーアプリを
開いて見た。
いつもつけてる月経の予測アプリ。
今月、まだ来てない。
いつもより2週間くらい
遅れてるかな。
いつも生理不順でいつくるか
わからない。
2、3ヶ月遅れることも
ざらにあった。
PMS症状で調子悪いのかなと
思った小松は
吐き気がおさまったところで
個室から出た。
晃が小松の1人暮らしのアパートに
住み始めて4年が経った。
元住んでいた家の荷物は
火事にあったんだと
言い聞かせて
一切足を踏み入れなかった。
誰も住んでないことを
確かめると
現地に行かずに
業者に頼んで全て引き払ってもらい
退去という形を取っていた。
家財道具や中のものすべてに
執着はなかった。
子育てにおいても
絵里香がしたことであって
自分は何もしてないという気持ちに
まで陥った。
大事なものは
キャリーバッグに入っていた。
個人情報が書かれた車の免許証
銀行の通帳やキャッシュカードが
入ったポーチや
スマホやタブレット本体、
それら周辺機器含めての充電器
お気に入りのデニムジーンズと
シャツ、インナーなどの
必要最低限のもの。
案外、それだけで生きられることに
驚いていた。
「ただいま。」
小松は晃よりも先に体調不良で
早退していた。
晃は残業を少しして
帰ってきた。
「おかえり。」
台所で夕飯の準備をしていた小松の
後ろに立つ晃。
キッチンの鍋をのぞいた。
「今日、何?」
「ミネストローネ。
セロリ入れてみた。
晃、食べられる?」
「俺、好き嫌いは
基本無いから。
珍味以外なら。
なまことか
得体の知れないものは
無理だけど。」
「そうなんだ。
私もなまこは食べないけどね。
セロリ嫌いって人多いって
聞くじゃない?
だから聞いたんだよ。」
「セロリは食べるし大丈夫。
それより今日、具合悪くしてて
帰ってたけど、調子どうなの?」
立ち上がり、
インスタントコーヒーを
マグカップに入れて
お湯を注ぎ入れた。
職場ではありがたく
入れてもらったのを飲むが、
うちでは自分でコーヒーを
入れると決めていた。
「うん。ちょっとね。
吐き気してて、でも
すぐおさまったから。」
晃は小松の額に手をあててみた。
「熱はないようだな。
早めに病院行けよ。」
食卓の上には茶色の紙袋が
置かれていた。
その中ではドラックストアで買った
妊娠検査薬が入っていた。
小松は見つからないように
引き出しの中に隠し入れた。
「う、うん。そだね。
そういや、住民票って
ここにうつした?」
「いや、まだだけど。
確か、俺の実家の住所に
してたけど、なんで?」
「あ、そうなんだ。
なんでもない。」
小松は食卓に出来上がった
食事を並べ始めた。
ミネストローネの他に
ポテトサラダと
コンソメスープを作っていた。
何かを言いかけて小松は
席に座る。
「美味しい?」
「うん、そだね。」
晃は美味しいとは
言ってくれなかったが、
食べている時の表情は
ニコニコしていた。
小さな子どものように
可愛かった。
1人の人間として
手厚く扱ってくれていることに
幸せを感じていた。
小松は晃との何とも言えない
関係性にいつまで続くんだろうと
不安がよぎっていた。
晃がベッドから立ち上がり
タバコを吸いにテーブルに置いた
電子タバコの本体を持ち上げる姿を
横から絵里香は見ていた。
ふわふわベッドで
体の右には瑠美が
左のベッドには塁がふとんを剥いで
うつ伏せに寝ていた。
そんな当たり前の風景が
朝起きたときに
見るんだろうなと
朝の景色が頭に思い浮かんだ。
寝ぼけてるんだろうなと
もう一度
そのまま目を閉じて
眠った。
夢って現実と同じようなことが
起きるだとハッとした。
今のは全部夢だった。
左腕を伸ばして
首を左に向けたら
夢と同じで塁はうつ伏せ寝に
右にはすやすやと瑠美が
安心して眠っていた。
こんなゆっくりとした時間が
流れているなら
このまま止まっていてほしいと
願った。
絵里香は体を起こして
トイレに行った。
部屋の中を見渡すと
あるものがなかった。
晃はきっとタバコを
吸いに喫煙所に行ったんだろうなと
予測していたが、
部屋の端っこに置いていた
キャリーバッグが1つ
なくなっていた。
(あれ、ここに
晃のキャリーバッグおいてたと
思ったけど、無いな。)
晃もどこに行ったのか
姿が見えなかった。
絵里香は気になって、
急いで浴衣から洋服に着替え
寝癖のある髪を適当にとかした。
子どもたち2人が眠る部屋の鍵を閉めて
喫煙所にいるかもしれないと
ルームキーを持ちながら
行ってみた。
同じくホテルに、泊まっていた
数人のお客さんが喫煙室で
談笑していた。
晃の姿は見えない。
ここまで来るのにすれ違ったのかなと
絵里香は思ったが、
部屋に戻っても晃はいなかった。
テーブルの上には車の鍵と家の鍵が
ついたキーケースだけが置かれていた。
置き手紙もない。
スマホのメッセージや着信履歴も
確認したが
何もなかった。
昨日あんなに愛し合ったのに
記憶違いだったかなと
頭の中で
いろんなことを思い出してみる。
何がいけなかったんだろう。
結局、その日は
晃が家族の元に帰ってくることは
なかった。
そもそも、これから先
どうやって生活していくかを
考えていこうと言う時に
晃は絵里香の目の前から姿を消した。
もう、嫌だったのかもしれない。
会社から戻ってきても良いって言葉に
甘えて引っ越す作業もしなくていいと
考えたらそのままがいいと。
でも、絵里香は世間的にさらしては
いけない行動を犯してしまった。
前の家には戻れない。
子どもたちの学校や幼稚園にも
絵里香の居場所はない。
後ろ指をさされながら生きるのは
辛すぎる。
仕事も辞めてしまって
収入源は晃の働いた分しか無い。
でも、頼りの綱の晃がいない。
住む場所も決めていない。
広い砂漠の地に
家族3人放り投げられたような気分だ。
もう、考えるのも疲れた。
この世界で生きて何が楽しいのか。
「お母さん、
お父さんは
どこ行っちゃったの?」
「わからない。
お仕事かな。」
「え、仕事なら、
職場に行けばいいじゃないの?」
「ごめんね、お母さん、
その気力さえないの。
ここ、福島だし、
お父さんの職場は仙台だし。」
無言でメッセージも
残さずに行くということは
探さないでということだろう。
絵里香は、後部座席に瑠美を、
助手席に塁を乗せた。
ホテルの宿泊代は
晃名義のカードで支払いは済ませて
あったようで
何も払う必要がなかった。
お金の心配はなかった。
でもそれでいいのか。
荷物をトランクに積んで、
車のエンジンをかけた。
いつもなら、運転席に晃が座るのに
頼りになる夫は今はいない。
ハンドルを握って、
絵里香は
ある場所に車を走らせた。
やはり、
これは自分の生きる
空間を変えなければと
生まれ育った実家へと
子どもたち2人を連れて向かった。
断れるのを覚悟の上だった。
「あら、来たの?」
母は相変わらずのトゲのある言い方で
3人を出迎えた。
今日は日曜日。
仕事は休みで絵里香の父と母は
庭の手入れをしていた。
雑草でいっぱいになった庭を
綺麗に芝刈りを使って
整えていた。
「庭、手入れしてたんだね。
まだまだ元気に動けるじゃん。」
絵里香は、
玄関を開けて何も言わずに
持っていたすべての荷物を置いた。
「これでも栄養ドリンク飲んで
頑張って体動かしてんのよ。
年とればとるほど
思ったように体は動いて
くれないからね。」
「そうなんだ。」
「ほら、絵里香も一緒に
庭の手入れするぞ。」
「いや、遠慮する。
子どもたちに
やらせたらいいじゃない。
立派な社会勉強。」
「そうだな。
そういや、子ども用軍手あるぞ。」
耕太郎は
物置から前もって買っておいた
子ども軍手を用意した。
「わーい。私もやる。」
「僕もー。」
珍しく喜んで、
耕太郎の元に駆け寄っていく
子どもたちにほっとした。
美那子も自分の仕事があると
思ってホッとしている。
「んじゃ、私、買い物いってくるね。
子どもたちのことお願い。」
「買い物?
一緒に連れてけばいいのに。」
「いいじゃん。たまには。」
「いいの。
僕たちじいじたちとここにいるの。」
「えー、
私はお母さんと買い物行きたい。」
「良いから、草取り手伝って。
やってくれたら、ご褒美にアイス
ごちそうしてあげるよ。」
「本当?
んじゃ、がんばるよ。」
瑠美はアイスのためだと
気合いを入れて草取りをした。
車のドア越しに2人が仲良く
庭の手入れしていることに
安堵した。
これで大丈夫。
「んじゃ、行ってきます。」
車の運転席のドアをバタンとしめた。
気持ちとは裏腹に外は雲ひとつない
天候に恵まれていた。
取り繕った買い物なんて
もうしなくてもいい。
何のためにしなくちゃいけないのか。
もう、あの子たちの居場所はある。
むしろ、私の居場所がないだけ。
無理して生きていても
辛いだけ。
母親として役目はもうないんだ。
父親を留めておけなかった
自分の責任。
視野が狭かった。
今はどんなに
優しい言葉をかけられても焼石に水。
絵里香の耳には聞こえてこない。
晃がここにいないのはなんでだろう。
どうして晃を好きになったんだっけ。
寝癖をぴょんとつけて
大学の帰りに会ったとき、
頭が良いのに少し抜けてる
ところとか。
背負っていたリュックのチャックが
開いているのをさりげなく
直してくれるとか。
目の近くにあるほくろとか。
鼻筋がシューと通っていて
女性の絵里香よりも長いまつげとか。
何も言わなくても
空気読んで
行動してくれる優しさとか。
本当は知っていた。
晃のいつも悪いところばかり
揚げ足取ってたマウントを
取っていたけど
仕事で忙しくても
たまに溜まっていた
洗い物してくれた。
洗濯物だって、言わなくても
干してくれるときだってあったし。
平日はまるっきりする時間ないから
料理はしてくれないけど
休みの日の日曜日に作ってくれた
目玉焼きとウィンナーの野菜炒め。
あれは
大したメニューじゃなかったけど
すごく美味しかったのを覚えている。
どうして、
さりげない仕草とか行動が
いいところが
たくさんあったのに
忙しさにかまけて
全然気づいてないふり
してたんだろう。
失った時に気づく晃の優しさが
鮮明に思い出される。
次、生まれ変わったら
また晃のそばで生きていきたい。
妻という存在で成り立たないなら
別な形でもいい。
今の時代、今の世界じゃない
ここではないどこかにいきたい。
絵里香は電車が行き交う陸橋の上で
白昼堂々、手すりにバランスを取って
飛び越えようとした。
昼間だというのに
まばらに人はいても
助けようとする人はいなかった。
ドラマやアニメのように
ギリギリで助けるなんて
ありえない。
むしろ、他人に関わるって
重い。
誰も見向きもしないんだ。
今を生きてることで精一杯。
そんなのわかってる。
でも少しくらい期待しても
いいじゃない。
行き交う電車の上に身を投じた。
ーーー夜のニュースで報道された。
「駅近辺の陸橋にて
人身事故が発生しました。
列車にはねられた女性は
全身を強く打ち、
その場での死亡が
確認されました。
これにより電車の遅延と
なりましたが、
その20分後に再開されました。
警察は亡くなった女性の
身元を調べるとともに
事故の状況を詳しく
調べています。」
テレビやラジオ、ネットニュースでも
その情報は流れた。
瑠美と塁は、
そのまま母の帰りを待ちながら
庭の手入れを続けていた。
祖母の美那子は、電話で一報を聞くと
血相を変えて耕太郎に抱きついて
泣いた。
どうして、絵里香と
しっかり向き合えて
いなかったんだろうと
自分自身を悔いた。
瑠美と塁は横で泣く美那子を
ヨシヨシと撫でた。
美那子は真実を口が裂けても
今は2人に報告することが
できなかった。
葬式を行うときにはさすがに
現実を見なくてはいけないため
瑠美と塁も信じられなかったが
淡々と式に参列していた。
真新しく買った子ども用の喪服。
ピシッとしていて
息苦しかった。
涙を流しても
拭ってくれるのは母ではない。
祖母や祖父では
満足しない。
お坊さんのお経と木魚が響く。
どうして僕たち 私たちを
置いていくの。
もう、そう叫んでも、
棺の中に入った
絵里香の体は夏だというのに
ひんやりと冷たくなっていて
ぴくりとも
動かなかった。
連絡先を途絶えた晃は
絵里香の葬式があることさえも
知らずに生きていた。
突然任せられた孫育て
絵里香の
母 美那子と父 耕太郎は
神様から与えらえた試練なんだと
現実を受け入れた。
今度は子育てじゃなく孫育てだなと
切り替えて気合いを入れた。
****
それから4年もの月日が流れた。
「西條、その書類できた?」
パソコンが並ぶ会社のデスク。
電話のコールが鳴り響く。
いつも通りの風景が流れていた。
榊原晃は平然と仙台のの職場で
前と同じ課長という肩書きで
過ごしていた。
新しい場所、新しい人間関係に
異動するというストレスと
引越し作業を自分以外のもの
全部するというストレスから
解放されたかった。
そして何より、
もう絵里香に対する想いは
ホテルで過ごしたあの時から
消えていた。
やっぱり男だから
胸は小さいより大きい方がいいし、
体の相性とか心の相性とか
子どもの性格の相性とか
金銭感覚とか
いろんなことを考えて
不倫や浮気をしないであろう
ふわふわしてない一途な人がいいなと
前から沸々と考えていた。
小松果歩は、生まれてからこれまで
彼氏ができたことがないと
言っていたし、
初めては自分だったと言っていた。
その言葉を信じたいと
もうドロドロした
喧嘩別れもしたくないし、
面倒だなと思って黙って
ホテルを飛び出してきた。
何もかもが面倒になっていた。
目の前のことに
必死で周りなんて考える余裕が
なかったのだ。
「課長、また、休憩時間
とってないですよ。
体に毒だから。」
小松は課長のデスクに入れたての
コーヒーを置いた。
「おう、さんきゅー。
わかってるよ。
んじゃ、休憩行ってこようかな。」
ポケットに入れておいた
紙たばことライターを取り出した。
少しコーヒーを飲んで
喫煙所に向かおうとした。
「あれ、課長、
電子タバコじゃなかった
でしたっけ。
変えた?」
「ああ。俺、我慢しないって
決めたから。
税金払って
市税を潤してるって
思ったら、
全然、募金してるってことで
よく取ってる。」
「良い解釈ですね。
まぁ、募金はいいですけど
体に毒だってことは忘れない方が
いいんじゃないですか?」
「ストレスが1番毒なの!」
「そうでしたね。」
小松はため息をついて
デスクに戻った。
鼻歌をうたいながら
晃は喫煙所に向かった。
ふと、デスクに戻った小松は、
体の違和感を覚えた。
口をおさえて
トイレに駆け込む。
「あれ、小松さん、
どうしたんすか?」
西條は小松の走っていく姿を見送った。自分の声は届いてないようだ。
(気持ち悪い。
昨日食べた刺身にあたったかな。
でも、買ったばかりだし。
それとも今朝食べたたまごかな。
晃、いつもたまごって言うから
ストックしてたたまごいつ買ったか
わからないんだよなぁ。)
トイレの個室の中で
ブツブツ唱えながら独り言を
言っていた。
ふとスマホのカレンダーアプリを
開いて見た。
いつもつけてる月経の予測アプリ。
今月、まだ来てない。
いつもより2週間くらい
遅れてるかな。
いつも生理不順でいつくるか
わからない。
2、3ヶ月遅れることも
ざらにあった。
PMS症状で調子悪いのかなと
思った小松は
吐き気がおさまったところで
個室から出た。
晃が小松の1人暮らしのアパートに
住み始めて4年が経った。
元住んでいた家の荷物は
火事にあったんだと
言い聞かせて
一切足を踏み入れなかった。
誰も住んでないことを
確かめると
現地に行かずに
業者に頼んで全て引き払ってもらい
退去という形を取っていた。
家財道具や中のものすべてに
執着はなかった。
子育てにおいても
絵里香がしたことであって
自分は何もしてないという気持ちに
まで陥った。
大事なものは
キャリーバッグに入っていた。
個人情報が書かれた車の免許証
銀行の通帳やキャッシュカードが
入ったポーチや
スマホやタブレット本体、
それら周辺機器含めての充電器
お気に入りのデニムジーンズと
シャツ、インナーなどの
必要最低限のもの。
案外、それだけで生きられることに
驚いていた。
「ただいま。」
小松は晃よりも先に体調不良で
早退していた。
晃は残業を少しして
帰ってきた。
「おかえり。」
台所で夕飯の準備をしていた小松の
後ろに立つ晃。
キッチンの鍋をのぞいた。
「今日、何?」
「ミネストローネ。
セロリ入れてみた。
晃、食べられる?」
「俺、好き嫌いは
基本無いから。
珍味以外なら。
なまことか
得体の知れないものは
無理だけど。」
「そうなんだ。
私もなまこは食べないけどね。
セロリ嫌いって人多いって
聞くじゃない?
だから聞いたんだよ。」
「セロリは食べるし大丈夫。
それより今日、具合悪くしてて
帰ってたけど、調子どうなの?」
立ち上がり、
インスタントコーヒーを
マグカップに入れて
お湯を注ぎ入れた。
職場ではありがたく
入れてもらったのを飲むが、
うちでは自分でコーヒーを
入れると決めていた。
「うん。ちょっとね。
吐き気してて、でも
すぐおさまったから。」
晃は小松の額に手をあててみた。
「熱はないようだな。
早めに病院行けよ。」
食卓の上には茶色の紙袋が
置かれていた。
その中ではドラックストアで買った
妊娠検査薬が入っていた。
小松は見つからないように
引き出しの中に隠し入れた。
「う、うん。そだね。
そういや、住民票って
ここにうつした?」
「いや、まだだけど。
確か、俺の実家の住所に
してたけど、なんで?」
「あ、そうなんだ。
なんでもない。」
小松は食卓に出来上がった
食事を並べ始めた。
ミネストローネの他に
ポテトサラダと
コンソメスープを作っていた。
何かを言いかけて小松は
席に座る。
「美味しい?」
「うん、そだね。」
晃は美味しいとは
言ってくれなかったが、
食べている時の表情は
ニコニコしていた。
小さな子どものように
可愛かった。
1人の人間として
手厚く扱ってくれていることに
幸せを感じていた。
小松は晃との何とも言えない
関係性にいつまで続くんだろうと
不安がよぎっていた。