溺愛社長とお菓子のような甘い恋を
狭い部屋の中、海斗さんが好きなコーヒーを入れて出すと、それをじっと見つめながら聞いてきた。
「どうして退職願なんて?」
声のトーンは少し落ち着いている。
「遅かれ早かれ、辞めることにはなっていたんです。それが早まっただけ」
「親父が言ったのか? 親父の言うことは聞かなくていいといっただろう?」
海斗さんは顔をしかめるが、私は首を振った。
「無理ですよ。それに私、もう疲れちゃって……」
「疲れた?」
海斗さんに軽く微笑む。
「毎日、親子喧嘩を目の前でされて、付き合うのも結婚するのも認められないって言われているんですよ? 私も精神的に来るものはあります」
これは本音だ。
「だからそれは俺が何とか……」
「できてないですよね!?」
私が遮るようにしてそう言うと、海斗さんはグっと言葉に詰まった。
「何とかするっていうけれど、できていない。やっぱりまだ会長の権限は強いし、海斗さんだって心のどこかでは会長の言うことを理解している。ただ感情面で認められていないだけです」
私の指摘に海斗さんは額を抑えながら俯いた。
「俺は花澄と一緒に居たいんだ」
「えぇ。私もそう思っていました。でも、無理ですよね? 私なんかでは会社の支えにはならないし、後ろ盾にもならない。真理愛さんは愛人ならいいなんて言うけど、そんなものになりたくはない」
捲し立てる様に言うと、海斗さんは唇をかんだ。
愛人の話に驚いた様子はないから、お見合いの時に聞いたのかな?
どんな話をしたのだろう。
でも、それももうどうでもいい。
私は海斗さんと別れる決意をしたんだ。お腹の子供を守るために。
だから、海斗さんが傷つく事も言える。
「私、もう辛いんです。なんだかすごく疲れました。もう嫌なんですよ。解放されたいんです。何もかもから」
「本気で……言ってるのか?」
愕然とした様子の海斗さん。
本気なわけない。本当は別れたくないし、今すぐにでもその腕の中に飛び込みたい。甘えたい。
全てをぶちまけてしまいたい。
でも、私にはそんな勇気も度胸も持ち合わせてはいなかった。
悩みに悩んだ。
毎日泣いた。
苦しくて苦しくて、夜も眠れなかった。
そして、やっと出来た決断だ。
「別れてください」
「花澄……」
辛そうな海斗さんを見ないように、顔を背けて立ち上がった。
これでいい。
この張り裂けそうなほど辛い気持ちはいつか癒える。
時間が解決してくれるはずだ。
そうだよね……? 赤ちゃん?
自嘲気味に笑みが溢れた時だった。
下腹部にズキンと強い痛みが走る。
「痛っ……」
締め付けられるようにズキンズキンと痛むお腹を押さえながら、その場に崩れ落ちてしまった。
何これ……! 痛くて立っていられない!
「うっ……」
痛みに顔をしかめると、海斗さんが慌てて駆け寄ってきた。
「花澄!? どうした、大丈夫か!?」
「あ……、うっ……」
痛みに脂汗が出てくる。
直感的に、これはやばいと感じた。
「待っていろ、今、救急車を……」
スマホを取り出す海斗さんの手を抑え、待ったをかける。そして棚の上に手を伸ばし、ポーチの中から診察券を取り出した。
本当は見せたくなかったが、今はそんな事を言っている場合ではない。
「ここに……連絡して……」
「産婦人科……?」
眉を顰めた海斗さんは私のお腹を見る。
何か言いたげにするが、苦しむ私に促されスマホを出して電話をかけた。
産院からすぐに来るよう言われて、海斗さんの車で向かった。
「切迫流産ですね。赤ちゃんが危険な状態です。しばらく入院して、絶対安静にしてください」
点滴を見ながら医者はそう言うと、部屋を出て行った。
ベッドに横たわる私は天井を見つめる。
赤ちゃんはなんとか助かったことに心から安堵した。
ストレスも強かったし、無理しすぎていたかもしれない。
ごめんね、苦しかったね。もうしないから、お願いだからここにいて?
私は心の中で赤ちゃんに謝った。
「……妊娠していたのか」
ベッド脇で椅子に座る海斗さんがポツリと呟いた。
相当驚いただろう。
一言も発していなかった海斗さんの声はかすれていた。
私は海斗さんの顔を見るのが怖くて、さっきから目を合わせてはいない。
あーあ、ばれちゃった。
本当は知られたくなかった。でも、一刻も争う事態だったししかたがない。
観念して話しだした。
「八週目。昼間に赤ちゃんの心拍が確認されたばかりでした」
海斗さんはベッド脇の椅子に座ったまま、顔だけ私に向ける。
「俺の子だろう? どうして言ってくれなかったんだ」
ここが個室で良かった。海斗さんの問いかけにそんなことを思う。
あまり人に聞かれたくない話題だ。
「……言えませんでした。海斗さんとは結婚できなくて、真理愛さんからは愛人になってもいい、でも子供は作らないでなんて言われたばかりでしたから。どうしていいかわからなかったんです。ただ、この子は私が大切に育てようって決めたんです」
だから、別れようとした。
すると、海斗さんは大きなため息をついた。
「ズルいな、花澄ばっかり。俺にもその権利をくれよ」
思いがけないセリフに一瞬言葉が出なかった。
「……え?」
「だってそうだろ? その子は俺との子供なんだろ? まさか、他の男の子供だなんて言わないよな?」
グッと眉を寄せる海斗さんに慌てて首を振る。
「そんなわけないじゃないですか!」
「だろ? だったら父親は俺だ」
父親……。そうだけど……。
「俺には父親として子供を育てる権利がある。俺だって花澄との子供を育てたいんだよ」
「海斗さん……?」
海斗さんは照れくさそうに笑った。
「花澄が妊娠しているって聞いて凄く嬉しい」
「海斗さん……」
海斗さんは私の手を取った。
「お見合いで真理愛さんと話したよ」
「はい……」
「なんか、淡々として人形みたくて不気味だったけど、俺がいかに花澄を愛しているか話してきた」
「あ、愛!?」
思わず赤面すると笑われた。
「そう、花澄への愛を一方的に語った。そしたら「あなたは面倒ですね」って言われたよ」
「え……」
面倒? まぁ、お見合い相手からしたら他の女の話ばかりされて、不快極まりないだろう。
面倒くさい男認定されたのか。
「だから、『そうです。俺は凄く面倒で執着心も強い男です』『あなたのような聡明な女性には鬱陶しく感じるでしょう』って話した」
真理愛さんは顔を顰めたそうだ。
『ご存じの通り、俺には結婚の意志はない。もし俺と結婚しても、花澄とどっちが愛人かわからなくなるほど、俺はあなたを一切相手にはしないでしょう』
『あなたはそれでも良いのですか? ずっとそんな惨めな生活に耐えられる?』
『これから一生、俺の単なる飾りとして生きていくんですよ』
そうワザとキツイ言葉を投げかけたらしい。
プライドの高そうな真理愛さんは表情を硬くしていたという。
「まぁ、あとはあちら次第だが……」
それでも、真理愛さんが家のために結婚を決めるかもしれない。
「だとしたら俺は……」
海斗さんは強い目で私を見返した。
「なぁ、花澄。子供が産まれるという時にこんな話もどうかと思うが……」
「なんですか?」
「もし、花澄との結婚を認められないようなら、俺は神野の家を出るつもりでいる」
「えっ!?」
海斗さんの言葉に思わず体を起こしそうになった。それを海斗さんが慌てて止める。
今は少しでも動かないよう言われていたんだった。
「ど、どういうことですか? 家を出るって……」
「会社を辞めて、社長を退く」
海斗さんは軽い口調で言うが、私は「無理です」と返した。
「そんなこと会長が絶対に許しませんよ」
「そうかもな。でも俺は絶縁する覚悟でいる」
絶縁って……。
唖然としていると、海斗さんはフッと微笑んだ。
「本当は、ずっとそうしたかった。でも迷いがあったんだ。会社への責任があるし、そう簡単なことではないとわかっていたからな」
そりゃそうだ。
海斗さんは一人息子。神野フーズの跡取りだ。
今、海斗さんが退いたら大変なことになる。
「でも今回のことでその迷いがなくなった。俺はお前と子供を守るためならなんでもするよ」
「海斗さん……」
「あぁ、もちろん会社や社員への責任は果たすよ? ちゃんと後任も見つけて、安定させてからだから少し時間はかかるかもしれないけど」
「でも、必ず花澄と子供の元へいく」
そう、キッパリと告げられた。
もう声が出なかった。出るのは小さな嗚咽と涙だけだ。
「花澄はゆっくり体を休めて、後は俺に任せろ」
「はい……。海斗さん、ごめんなさい」
「俺こそ、負担かけてごめん。今回のストレスで赤ちゃんを危険にさらしたかもしれないんだもんな」
「ごめんな」と海斗さんはそっとお腹に手を当てて赤ちゃんに謝った。
大きくて温かい手だ。
ずっと求めていた手。
海斗さんには大きな決断をさせてしまった。
申し訳なさと同時に、私を選んでくれたことが嬉しくてたまらなかった。
私はズルい。
でも、もうズルくてもいい。
海斗さんと赤ちゃんといられるならそれで……。
「海斗さん、ごめんなさい。ありがとう」
海斗さんは満面の笑みをみせると、私の頭を撫でて帰って行った。