ゴーストと呼ばれた地味な令嬢は逆行して悪女となって派手に返り咲く〜クロエは振り子を二度揺らす〜
「っはぁ……はぁ……っつ…………」
しばらくして、荒い呼吸だけがその場に残った。
心臓は内側から強く叩かれているかのように激しく打って、割れるように頭が痛くて、全身が泡立ち、息ができなかった。ひゅうひゅうと、過呼吸のように、ただ乱れる。
ふと我に返ると、ローレンス皇子が氷のような冷たい目で見下ろしていた。
「クロエは、継母と異母妹から酷い虐待を受けていた。魔法が使えないという下らん理由で、父親からも見放されていたんだ」
「そ、れは……」
「知っていたか? 彼女は食事も与えられなくて、夜中に厨房の生ごみを漁って飢えをしのいでいたんだ。まだ成人していない、侯爵令嬢が」
「っ……」
スコットは絶句して呆然と虚空を見た。
そんなの、知らない。
自分が周囲から聞いていたのは、クロエがどうしようもない男好きで、夜な夜な遊び歩いていて、魔法の勉強も放り出して怠惰な生活を送っていて、卑しい身分の悪い仲間とつるみ、異母妹をいびり抜いていて……、
…………、
それは……本当のことだったのか?
揺らぐスコットの心をお見通しだと言わんばかりに、ローレンス皇子は射抜くような険しい視線を彼に投げる。
「お前は、ちゃんとクロエの話を聞いたのか? 周囲の無責任な流言ではなく、彼女自身の言葉を」
「…………」
スコットは押し黙る。皇子の正論が、彼の心を強く殴打した。
あの頃は、これまで品行方正だったクロエの初めての醜聞が青天の霹靂で、途端に頭にかっと血が上って、一方的に彼女を悪だと決めつけていた。
そして怒りに任せて彼女を責めて……責めて、なにも話を聞こうとしなかったのだ。
「なぜ……」皇子が唸るような低い声を出す。「なぜ、彼女の話を聞いてあげなかったんだ? なぜ、彼女の言葉を信じてやらなかった?」
「…………」
スコットは返す言葉も出ない。
すると、皇子の眼光がにわかに鋭くなった。
「婚約者だろう!? 例え味方が己だけになっても、愛する人のことは最後まで守ってやれよ!」
ローレンス皇子の酷烈な言葉が反響して、やがて静寂に溶け込んだ。
洞窟の最奥みたいな静けさが再び戻る。風の音と水の音。呼吸の音も、それらに掻き消された。