幸せでいるための秘密
*
疲れやすいという言葉のとおり、桂さんは歩くだけで息を切らした。駅のベンチに腰掛けながら、彼は悔しそうにため息をつき、
「みっともない」
と苦虫を噛み潰したようにぼやく。
「こんなことなら車を呼びつければよかった」
「まだ時間まで余裕ありますし、ゆっくり行きましょう」
少し歩いては木陰で休み、水は飲まずに呼吸を整える。桂さんは私がもってきた折り畳みの日傘をさしつつ、流れる汗を鬱陶しそうに小さなタオルで拭っている。
「格好悪い……」
長い前髪を指先でかきあげ、低く言い捨てるその姿に、海風に吹かれた樹くんを思い出す。
見た目は似ても似つかない二人だけど、ふとした折の仕草なんかが、妙に重なって見えるのが不思議だ。
目的となる美術館は、最寄駅から20分ほど電車に揺られた先にある。駅を出て、空が見えた途端にぎらぎら主張する灼熱の夏の日光を、桂さんは忌々しそうに睨みつけていたけれど、やがて観念したように日傘を開くと、
「さっさと行こう」
と私を顎で促した。
美術館の中に入ると、空調の心地よさに一気に身体が楽になった。背中のシャツが張り付くほどの汗がさあっと引いていくのがわかる。桂さんも一息ついて、少し安心しているように見えた。
有名な彫刻のレプリカらしい大きなオブジェが、広場のあちこちに展示されている。物珍しそうに辺りを見回す私の隣で、桂さんはスマホで時間を確認する。
「企画展まであと何分?」
「三十分くらいですね」
「なら、常設展を先に見ようか」
まるで自分の家のように、すたすたと歩き出す桂さん。私はここへ来たのははじめてだから、必然的に桂さんの背中を追い回す形になる。
大昔に教科書で見たような天使の絵。十字架にかけられたキリスト。風に吹かれる小麦の風景画。
そのどれもが貴重で素晴らしいものだろうな、ということくらいはわかる。でもやっぱり私はどうも芸術がピンと来なくて「なんかすごいなあ」という以上の感想が出てこない。
(というか、むしろ……)
傍らへちらと目を向ける。
両手をポケットに突っ込み、軽く顎を持ち上げて、自分より少し高い位置にある絵を見つめる桂さんの横顔。
見開くわけでも伏せるわけでもなく、適度に力の抜けた目元を、分厚く長いまつ毛の層が縁取る。綺麗な鼻筋。形の良い唇。神様がきっと丁寧に丁寧に作ったんだろうと、見惚れてしまうほどの美しさ。
(絵画より桂さんのほうが、ずっと神秘的で綺麗かもしれない)
桂さんはさっきからずっと立ち止まったまま、ある絵画を吸い込まれるように見つめている。
色鮮やかなラピスラズリ色のヴェールを被る聖母マリア。我が子キリストの運命をめぐり、悲しみに暮れるその姿は、神々しさの中に甘美な愁いを添えている。
そして桂さんもまた、苦しいような悲しいような……あるいはどこか恍惚としたような、なんとも形容しがたい表情でじっとマリアを見つめていた。まるで、この世界に絵画と桂さんのふたりきりしかいないみたいで、私は声をかけることもできず黙って隣に寄り添い立つ。
やがて桂さんは、ふっ、と小さく鼻で笑うと、くるりときびすを返して次の絵へと向かってしまった。私が慌てて追いかけると、彼は少し立ち止まり、私が隣に並ぶのを待って、今度はゆっくりと歩き出す。
「さっきの絵、気に入ったんですか?」
私が訊ねると、桂さんはいつものように「別に」と言い捨ててから、
「だいたい聖母マリアなんて、実在したかもわからないのにね」
と、皮肉っぽく付け加えた。
疲れやすいという言葉のとおり、桂さんは歩くだけで息を切らした。駅のベンチに腰掛けながら、彼は悔しそうにため息をつき、
「みっともない」
と苦虫を噛み潰したようにぼやく。
「こんなことなら車を呼びつければよかった」
「まだ時間まで余裕ありますし、ゆっくり行きましょう」
少し歩いては木陰で休み、水は飲まずに呼吸を整える。桂さんは私がもってきた折り畳みの日傘をさしつつ、流れる汗を鬱陶しそうに小さなタオルで拭っている。
「格好悪い……」
長い前髪を指先でかきあげ、低く言い捨てるその姿に、海風に吹かれた樹くんを思い出す。
見た目は似ても似つかない二人だけど、ふとした折の仕草なんかが、妙に重なって見えるのが不思議だ。
目的となる美術館は、最寄駅から20分ほど電車に揺られた先にある。駅を出て、空が見えた途端にぎらぎら主張する灼熱の夏の日光を、桂さんは忌々しそうに睨みつけていたけれど、やがて観念したように日傘を開くと、
「さっさと行こう」
と私を顎で促した。
美術館の中に入ると、空調の心地よさに一気に身体が楽になった。背中のシャツが張り付くほどの汗がさあっと引いていくのがわかる。桂さんも一息ついて、少し安心しているように見えた。
有名な彫刻のレプリカらしい大きなオブジェが、広場のあちこちに展示されている。物珍しそうに辺りを見回す私の隣で、桂さんはスマホで時間を確認する。
「企画展まであと何分?」
「三十分くらいですね」
「なら、常設展を先に見ようか」
まるで自分の家のように、すたすたと歩き出す桂さん。私はここへ来たのははじめてだから、必然的に桂さんの背中を追い回す形になる。
大昔に教科書で見たような天使の絵。十字架にかけられたキリスト。風に吹かれる小麦の風景画。
そのどれもが貴重で素晴らしいものだろうな、ということくらいはわかる。でもやっぱり私はどうも芸術がピンと来なくて「なんかすごいなあ」という以上の感想が出てこない。
(というか、むしろ……)
傍らへちらと目を向ける。
両手をポケットに突っ込み、軽く顎を持ち上げて、自分より少し高い位置にある絵を見つめる桂さんの横顔。
見開くわけでも伏せるわけでもなく、適度に力の抜けた目元を、分厚く長いまつ毛の層が縁取る。綺麗な鼻筋。形の良い唇。神様がきっと丁寧に丁寧に作ったんだろうと、見惚れてしまうほどの美しさ。
(絵画より桂さんのほうが、ずっと神秘的で綺麗かもしれない)
桂さんはさっきからずっと立ち止まったまま、ある絵画を吸い込まれるように見つめている。
色鮮やかなラピスラズリ色のヴェールを被る聖母マリア。我が子キリストの運命をめぐり、悲しみに暮れるその姿は、神々しさの中に甘美な愁いを添えている。
そして桂さんもまた、苦しいような悲しいような……あるいはどこか恍惚としたような、なんとも形容しがたい表情でじっとマリアを見つめていた。まるで、この世界に絵画と桂さんのふたりきりしかいないみたいで、私は声をかけることもできず黙って隣に寄り添い立つ。
やがて桂さんは、ふっ、と小さく鼻で笑うと、くるりときびすを返して次の絵へと向かってしまった。私が慌てて追いかけると、彼は少し立ち止まり、私が隣に並ぶのを待って、今度はゆっくりと歩き出す。
「さっきの絵、気に入ったんですか?」
私が訊ねると、桂さんはいつものように「別に」と言い捨ててから、
「だいたい聖母マリアなんて、実在したかもわからないのにね」
と、皮肉っぽく付け加えた。