幸せでいるための秘密
「今後改善する見込みはない。人工透析はとりあえず日々を生きるための処置であって、腎臓の治療とはまったく別のものだからね」
「…………」
「でも、死ぬまで永遠に果物を食べられないわけじゃない。たった一つだけ、僕の身体を治す方法がある。それは、腎臓移植だ」
腎臓移植。
声に出さずに繰り返す私を見つめ、桂さんはうなずく。
「人間は腎臓を二つ持っている。そして、健康な腎臓が一つでも残っていれば、身体としては特に問題なく働くんだよ」
「そうなんですか……」
「でも、脳死された方から臓器を頂く臓器提供は数が少ない。そうすると手段は生体移植……生きている人間から腎臓をひとつもらう方になるのだけど、こちらは親族か配偶者でなければ行うことができないんだ」
テーブルに両肘をついた桂さんが、組んだ両手に顎を載せ微笑む。
「ねえ百合香。僕、お前と二人でそのケーキを食べてみたい」
フォークを持つ私の指先が、光の矢に刺し貫かれたみたいに動きを止める。
「僕と結婚して、お前の腎臓をひとつ譲ってくれる?」
それは――
たちの悪い冗談とか、ただ単にからかっているだけとか。
正直どうとでも取れるような言葉だった。だって桂さんは、ほとんど感情を表に出さず、綺麗な顔に張り付いたような笑みを浮かべているだけだから。
でもその瞳は、……弓なりに細められたガラス玉みたいにきらきらの瞳は、その奥底に真っ黒に濁った重たい泥濘を隠し持っているように見えた。もしかしたら桂さんの言葉は、泥の底から私に向かって、救いを求めて伸ばされた手だったのかもしれない。
「わ、わたし」
ただ、このときの私はそこまでの判断ができなかった。黒い眼差しに見つめられて、身動きもできないまま、……ただ最低限の一言だけを、私は残酷なほど端的に言い放った。
「彼氏、います」
桂さんの両目がふわっと見開かれ、形の良い唇がほんのわずかに開かれる。
「そう」
彼はゆっくりと身体を起こすと、そのまま椅子に寄りかかる。
「そうか」
そしてわずかにうつむき、長いまつげをそっと伏せたかと思うと、
「残念だ」
ひどくかすれた、カフェの喧騒にかき消されてしまうほどの声で、そう言った。
桂さんはそのまましばらく、事切れたみたいに動かなくなった。なんて声をかけるべきかわからず、私もまた黙り込んでしまう。
やがて彼はチケットの半券をポケットから取り出した。それから私の方へ目をやり、ふいに空気が抜けたみたいに力なく笑みを漏らす。
「なら、このチケットはお前の男の趣味だろうね。そのワンピースも……」
「あの……」
「いいんだ。チケットの半券は男へ渡してやればいい。それと今度は、絵画じゃなくてパンダを見たいとねだるんだよ。そうでないと、今度はきっと別の美術館へ連れていかれるだろうからね」
悪魔が通り過ぎたみたく会話が途切れ、私は仕方なく小さく切ったケーキを口へ運んだ。メロンも生クリームもどちらも大好きなはずなのに、なぜだかまったく味を感じられなかった。
「…………」
「でも、死ぬまで永遠に果物を食べられないわけじゃない。たった一つだけ、僕の身体を治す方法がある。それは、腎臓移植だ」
腎臓移植。
声に出さずに繰り返す私を見つめ、桂さんはうなずく。
「人間は腎臓を二つ持っている。そして、健康な腎臓が一つでも残っていれば、身体としては特に問題なく働くんだよ」
「そうなんですか……」
「でも、脳死された方から臓器を頂く臓器提供は数が少ない。そうすると手段は生体移植……生きている人間から腎臓をひとつもらう方になるのだけど、こちらは親族か配偶者でなければ行うことができないんだ」
テーブルに両肘をついた桂さんが、組んだ両手に顎を載せ微笑む。
「ねえ百合香。僕、お前と二人でそのケーキを食べてみたい」
フォークを持つ私の指先が、光の矢に刺し貫かれたみたいに動きを止める。
「僕と結婚して、お前の腎臓をひとつ譲ってくれる?」
それは――
たちの悪い冗談とか、ただ単にからかっているだけとか。
正直どうとでも取れるような言葉だった。だって桂さんは、ほとんど感情を表に出さず、綺麗な顔に張り付いたような笑みを浮かべているだけだから。
でもその瞳は、……弓なりに細められたガラス玉みたいにきらきらの瞳は、その奥底に真っ黒に濁った重たい泥濘を隠し持っているように見えた。もしかしたら桂さんの言葉は、泥の底から私に向かって、救いを求めて伸ばされた手だったのかもしれない。
「わ、わたし」
ただ、このときの私はそこまでの判断ができなかった。黒い眼差しに見つめられて、身動きもできないまま、……ただ最低限の一言だけを、私は残酷なほど端的に言い放った。
「彼氏、います」
桂さんの両目がふわっと見開かれ、形の良い唇がほんのわずかに開かれる。
「そう」
彼はゆっくりと身体を起こすと、そのまま椅子に寄りかかる。
「そうか」
そしてわずかにうつむき、長いまつげをそっと伏せたかと思うと、
「残念だ」
ひどくかすれた、カフェの喧騒にかき消されてしまうほどの声で、そう言った。
桂さんはそのまましばらく、事切れたみたいに動かなくなった。なんて声をかけるべきかわからず、私もまた黙り込んでしまう。
やがて彼はチケットの半券をポケットから取り出した。それから私の方へ目をやり、ふいに空気が抜けたみたいに力なく笑みを漏らす。
「なら、このチケットはお前の男の趣味だろうね。そのワンピースも……」
「あの……」
「いいんだ。チケットの半券は男へ渡してやればいい。それと今度は、絵画じゃなくてパンダを見たいとねだるんだよ。そうでないと、今度はきっと別の美術館へ連れていかれるだろうからね」
悪魔が通り過ぎたみたく会話が途切れ、私は仕方なく小さく切ったケーキを口へ運んだ。メロンも生クリームもどちらも大好きなはずなのに、なぜだかまったく味を感じられなかった。