幸せでいるための秘密
第十三章 初恋の人
最近の樹くんは、少しだけ様子がおかしい。
前よりもよくスマホを見ている。でも、浮気とかそういう感じではなくて、なんだか小難しい顔をして画面を睨んでいることが多い。
ほら、今日も。
「…………」
小さく震えたスマホを手に取り、樹くんはぎゅっと眉を寄せた。私の膝の上に載っていた頭がぐるんとお腹側に向き直る。私の位置からでは彼のスマホはどう頑張っても見えそうにない。
一度はスマホをソファへ放り出し、うたたねを再開した樹くん。でも、結局五分もしないうちに彼は再びスマホを取ると、
「ちょっと電話してくる」
と言って、ベランダの方へと出ていった。
夜空と部屋を隔てる掃き出し窓がピシャンと閉まる。突然寂しくなった膝の上へ、私はクッションを引き寄せた。「何かあったの」と訊いたことはある。でも、何度訊ねても答えはいつも「なんでもない」だけだった。
(疑っているわけじゃないけど、毎回誤魔化されるのはちょっと寂しいな)
リビングの中からではベランダの声など聞こえるはずもない。
面白くもないバラエティ番組をぼんやりと眺める。ちょうどCMに入ったとき、再びベランダを振り返ると、電話を終えたらしい樹くんが手すりにもたれかかっているのが見えた。
大きくて、逞しい背中。
だけど今日は、いつもよりずっと小さく見える。
私はテレビの電源を消すと、クッションとブランケットを除けて立ち上がった。普段ほとんど出ることのないベランダへの掃き出し窓へ手をかける。
カラカラと窓を開けた途端、夏の夜特有の蒸し暑い熱気がリビングへ入り込むのがわかった。百均で買ったサンダルをつっかけ、樹くんの方へ顔を向ける――
「……樹くん?」
「あっ」
揺れる肩にあわせ、細くたなびく一筋の煙。
彼の手元の細い筒から出たそれは、夏の生ぬるい風に吹かれて空の彼方へと散っていく。
「……たばこ、吸うんだ」
正直そういうイメージがなかったから、私はかなり驚いた。
たばこって、なんていうか、もっと……やさぐれている人が吸うものだとばかり思っていたから。
樹くんは自分の手元へ目を落とし、それから軽く目を逸らす。持っているのは普通のたばこじゃなくて、充電式の加熱式たばこらしい。黒いスマートな円筒が、樹くんのごつごつした長い指にとてもよく似合っていて、おしゃれな映画のポスターの中に入り込んだみたいに見える。
「ごめん」
「謝られるようなことじゃないよ。ちょっと驚いたけどね」
「家の中では吸ってない。それに最近は……何か月も吸ってなかった」
確かにこの家でたばこ独特のにおいを感じたことはない。吸い殻らしきものを見かけたこともないし、きっといつもこのベランダで吸っていたのだろう。
決まり悪そうに眉を寄せる樹くんの隣に並ぶ。真似して手すりに寄りかかると、どこか遠くからほんの小さな虫の声がかすかに聞こえた。
「いつ頃から吸い始めたの?」
「大学生の頃。百合香と別れた後、お世話になっていたバイト先の――まあ、今も務めている弁護士事務所の先生に教わった。あの頃は普通の紙巻きを吸っていて、でも、少しずつやめようと思って、一番ニコチンの少ないタイプの加熱式に変えた」
樹くんの手元で黒い円筒が所在なさげに揺れている。
「ここ数年はほとんど吸わずに済んでいたけど、最近ちょっとストレスが多くて。少しでも嫌な気持ちが楽になればと、久々に試したところだったんだ」
前よりもよくスマホを見ている。でも、浮気とかそういう感じではなくて、なんだか小難しい顔をして画面を睨んでいることが多い。
ほら、今日も。
「…………」
小さく震えたスマホを手に取り、樹くんはぎゅっと眉を寄せた。私の膝の上に載っていた頭がぐるんとお腹側に向き直る。私の位置からでは彼のスマホはどう頑張っても見えそうにない。
一度はスマホをソファへ放り出し、うたたねを再開した樹くん。でも、結局五分もしないうちに彼は再びスマホを取ると、
「ちょっと電話してくる」
と言って、ベランダの方へと出ていった。
夜空と部屋を隔てる掃き出し窓がピシャンと閉まる。突然寂しくなった膝の上へ、私はクッションを引き寄せた。「何かあったの」と訊いたことはある。でも、何度訊ねても答えはいつも「なんでもない」だけだった。
(疑っているわけじゃないけど、毎回誤魔化されるのはちょっと寂しいな)
リビングの中からではベランダの声など聞こえるはずもない。
面白くもないバラエティ番組をぼんやりと眺める。ちょうどCMに入ったとき、再びベランダを振り返ると、電話を終えたらしい樹くんが手すりにもたれかかっているのが見えた。
大きくて、逞しい背中。
だけど今日は、いつもよりずっと小さく見える。
私はテレビの電源を消すと、クッションとブランケットを除けて立ち上がった。普段ほとんど出ることのないベランダへの掃き出し窓へ手をかける。
カラカラと窓を開けた途端、夏の夜特有の蒸し暑い熱気がリビングへ入り込むのがわかった。百均で買ったサンダルをつっかけ、樹くんの方へ顔を向ける――
「……樹くん?」
「あっ」
揺れる肩にあわせ、細くたなびく一筋の煙。
彼の手元の細い筒から出たそれは、夏の生ぬるい風に吹かれて空の彼方へと散っていく。
「……たばこ、吸うんだ」
正直そういうイメージがなかったから、私はかなり驚いた。
たばこって、なんていうか、もっと……やさぐれている人が吸うものだとばかり思っていたから。
樹くんは自分の手元へ目を落とし、それから軽く目を逸らす。持っているのは普通のたばこじゃなくて、充電式の加熱式たばこらしい。黒いスマートな円筒が、樹くんのごつごつした長い指にとてもよく似合っていて、おしゃれな映画のポスターの中に入り込んだみたいに見える。
「ごめん」
「謝られるようなことじゃないよ。ちょっと驚いたけどね」
「家の中では吸ってない。それに最近は……何か月も吸ってなかった」
確かにこの家でたばこ独特のにおいを感じたことはない。吸い殻らしきものを見かけたこともないし、きっといつもこのベランダで吸っていたのだろう。
決まり悪そうに眉を寄せる樹くんの隣に並ぶ。真似して手すりに寄りかかると、どこか遠くからほんの小さな虫の声がかすかに聞こえた。
「いつ頃から吸い始めたの?」
「大学生の頃。百合香と別れた後、お世話になっていたバイト先の――まあ、今も務めている弁護士事務所の先生に教わった。あの頃は普通の紙巻きを吸っていて、でも、少しずつやめようと思って、一番ニコチンの少ないタイプの加熱式に変えた」
樹くんの手元で黒い円筒が所在なさげに揺れている。
「ここ数年はほとんど吸わずに済んでいたけど、最近ちょっとストレスが多くて。少しでも嫌な気持ちが楽になればと、久々に試したところだったんだ」