幸せでいるための秘密
*
今日を、最後にしよう。
そう思ったのは、やっぱりあの日の桂さんの言葉のせいだ。ただの冗談。ほんの戯れ。頭ではそうわかっていても、桂さんの弓なりの瞳がずっと頭から離れない。
私が彼に与えられない、与えてはいけないものを求められている感覚。
それはその、腎臓という直接的な意味ではなく、もっと漠然とした――深い感情を、求められている気がしてしまったから。
「今日は朝から《《なんぎくて》》。お待たせしてしまってごめんなさいね」
このお花屋さんで作ってもらう花束は、いつも必ず百合が入る。
店員さんの趣味なのかな。具合悪そうにする店員さんに「お大事に」と伝えて、私は病院へと向かった。
(ここへはもう来ないと言ったら、桂さんはどんな顔をするだろう)
いや、それ以前に、私は彼にどんな言葉で別れを告げればいいのだろう。
重い足取りで病院に入ると、受付さんが私を見てにっこりと笑みを浮かべた。このままどうぞと、指先がエレベーターを指す。私ももう、すっかりこの病院の常連だ。
「おじゃまします」
桂さんの病室の扉を開ける。
白いベッドに横たわり、指先でタブレットをいじりながら、桂さんはまぶたを持ち上げ私の姿をちらと見た。
「いつもの服だね」
「仕事帰りですから」
「そう。嫌いではないよ」
ベッドの下から丸椅子を引き出し、ここへ座れと彼の手が言う。
傍に置かれた小さな花瓶に、私が今日買ってきた花束を付け足すと、
「お前も飽きないね」
と笑って、桂さんがその中から百合一輪を引き抜いた。
「これを入れてくるのはわざとなの?」
「偶然ですよ。行きつけのお花屋さんが、百合の花を好きみたいで」
「そう。まあいいけど……」
続く桂さんの言葉がまるで頭に入ってこない。どうやって切り出そう。どんな言葉なら傷つけずに済むだろう。頭の中がぐるぐる回って、さっきからずっと息が苦しい。
(いや、傷つけずに済む言葉なんてない)
私が彼の立場だとしたら、どんな優しい言葉を使われても、深く深く傷つくはずだ。
「……百合香、聞いてる?」
ぺち、とほっぺたを叩かれて強制的に現実へと戻る。
桂さんは私の頬に手を当てたまま、むすっとした顔でじっとこっちを見つめている。でも、彼もまた不意に我に返ったみたいに私の頬から手を離すと、どこか寂しそうに微笑んだ。ちくり、私の胸が痛む。
「……すみません。ちょっと、仕事のこと考えてました」
「そう。お前も忙しいんだね」
「いえ、その……すみません。なんのお話だったんですか?」
「これだよ。グーグルマップ」
桂さんはタブレットの画面を私の方へと向けて見せる。映っているのは、どこか外国の大きな道路かな? 抜けるような青空と見る南国らしい緑の並木が、どこまでもまっすぐ続いている。
「まだ調子が良かった頃、旅行に行った先の景色を見ていたんだ」
「へえ、面白そうですね」
「面白いよ。これなら病室からどこへでも行ける。国内でも、海外でも」
今日を、最後にしよう。
そう思ったのは、やっぱりあの日の桂さんの言葉のせいだ。ただの冗談。ほんの戯れ。頭ではそうわかっていても、桂さんの弓なりの瞳がずっと頭から離れない。
私が彼に与えられない、与えてはいけないものを求められている感覚。
それはその、腎臓という直接的な意味ではなく、もっと漠然とした――深い感情を、求められている気がしてしまったから。
「今日は朝から《《なんぎくて》》。お待たせしてしまってごめんなさいね」
このお花屋さんで作ってもらう花束は、いつも必ず百合が入る。
店員さんの趣味なのかな。具合悪そうにする店員さんに「お大事に」と伝えて、私は病院へと向かった。
(ここへはもう来ないと言ったら、桂さんはどんな顔をするだろう)
いや、それ以前に、私は彼にどんな言葉で別れを告げればいいのだろう。
重い足取りで病院に入ると、受付さんが私を見てにっこりと笑みを浮かべた。このままどうぞと、指先がエレベーターを指す。私ももう、すっかりこの病院の常連だ。
「おじゃまします」
桂さんの病室の扉を開ける。
白いベッドに横たわり、指先でタブレットをいじりながら、桂さんはまぶたを持ち上げ私の姿をちらと見た。
「いつもの服だね」
「仕事帰りですから」
「そう。嫌いではないよ」
ベッドの下から丸椅子を引き出し、ここへ座れと彼の手が言う。
傍に置かれた小さな花瓶に、私が今日買ってきた花束を付け足すと、
「お前も飽きないね」
と笑って、桂さんがその中から百合一輪を引き抜いた。
「これを入れてくるのはわざとなの?」
「偶然ですよ。行きつけのお花屋さんが、百合の花を好きみたいで」
「そう。まあいいけど……」
続く桂さんの言葉がまるで頭に入ってこない。どうやって切り出そう。どんな言葉なら傷つけずに済むだろう。頭の中がぐるぐる回って、さっきからずっと息が苦しい。
(いや、傷つけずに済む言葉なんてない)
私が彼の立場だとしたら、どんな優しい言葉を使われても、深く深く傷つくはずだ。
「……百合香、聞いてる?」
ぺち、とほっぺたを叩かれて強制的に現実へと戻る。
桂さんは私の頬に手を当てたまま、むすっとした顔でじっとこっちを見つめている。でも、彼もまた不意に我に返ったみたいに私の頬から手を離すと、どこか寂しそうに微笑んだ。ちくり、私の胸が痛む。
「……すみません。ちょっと、仕事のこと考えてました」
「そう。お前も忙しいんだね」
「いえ、その……すみません。なんのお話だったんですか?」
「これだよ。グーグルマップ」
桂さんはタブレットの画面を私の方へと向けて見せる。映っているのは、どこか外国の大きな道路かな? 抜けるような青空と見る南国らしい緑の並木が、どこまでもまっすぐ続いている。
「まだ調子が良かった頃、旅行に行った先の景色を見ていたんだ」
「へえ、面白そうですね」
「面白いよ。これなら病室からどこへでも行ける。国内でも、海外でも」