幸せでいるための秘密



 今日を、最後にしよう。

 そう思ったのは、やっぱりあの日の桂さんの言葉のせいだ。ただの冗談。ほんの戯れ。頭ではそうわかっていても、桂さんの弓なりの瞳がずっと頭から離れない。

 私が彼に与えられない、与えてはいけないものを求められている感覚。

 それはその、腎臓という直接的な意味ではなく、もっと漠然とした――深い感情を、求められている気がしてしまったから。

「今日は朝から《《なんぎくて》》。お待たせしてしまってごめんなさいね」

 このお花屋さんで作ってもらう花束は、いつも必ず百合が入る。

 店員さんの趣味なのかな。具合悪そうにする店員さんに「お大事に」と伝えて、私は病院へと向かった。

(ここへはもう来ないと言ったら、桂さんはどんな顔をするだろう)

 いや、それ以前に、私は彼にどんな言葉で別れを告げればいいのだろう。

 重い足取りで病院に入ると、受付さんが私を見てにっこりと笑みを浮かべた。このままどうぞと、指先がエレベーターを指す。私ももう、すっかりこの病院の常連だ。

「おじゃまします」

 桂さんの病室の扉を開ける。

 白いベッドに横たわり、指先でタブレットをいじりながら、桂さんはまぶたを持ち上げ私の姿をちらと見た。

「いつもの服だね」

「仕事帰りですから」

「そう。嫌いではないよ」

 ベッドの下から丸椅子を引き出し、ここへ座れと彼の手が言う。

 傍に置かれた小さな花瓶に、私が今日買ってきた花束を付け足すと、

「お前も飽きないね」

 と笑って、桂さんがその中から百合一輪を引き抜いた。

「これを入れてくるのはわざとなの?」

「偶然ですよ。行きつけのお花屋さんが、百合の花を好きみたいで」

「そう。まあいいけど……」

 続く桂さんの言葉がまるで頭に入ってこない。どうやって切り出そう。どんな言葉なら傷つけずに済むだろう。頭の中がぐるぐる回って、さっきからずっと息が苦しい。

(いや、傷つけずに済む言葉なんてない)

 私が彼の立場だとしたら、どんな優しい言葉を使われても、深く深く傷つくはずだ。

「……百合香、聞いてる?」

 ぺち、とほっぺたを叩かれて強制的に現実へと戻る。

 桂さんは私の頬に手を当てたまま、むすっとした顔でじっとこっちを見つめている。でも、彼もまた不意に我に返ったみたいに私の頬から手を離すと、どこか寂しそうに微笑んだ。ちくり、私の胸が痛む。

「……すみません。ちょっと、仕事のこと考えてました」

「そう。お前も忙しいんだね」

「いえ、その……すみません。なんのお話だったんですか?」

「これだよ。グーグルマップ」

 桂さんはタブレットの画面を私の方へと向けて見せる。映っているのは、どこか外国の大きな道路かな? 抜けるような青空と見る南国らしい緑の並木が、どこまでもまっすぐ続いている。

「まだ調子が良かった頃、旅行に行った先の景色を見ていたんだ」

「へえ、面白そうですね」

「面白いよ。これなら病室からどこへでも行ける。国内でも、海外でも」
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