幸せでいるための秘密
「あっ、やめちゃうんですか?」

「やめる。別の話をしよう、なんでもいいから」

 もしかして本当に新潟に嫌な思い出でもあったのだろうか。日本酒飲み放題のお店で張り切りすぎて救急車で運ばれたとか? 佐渡金山に観光に行ったらあまりにも寒くて風邪をひいたとか?

 いきなり別の話をしようと言われても、そんな唐突に新しい話題など思いつくはずもない。そもそも私、今日は桂さんに別れを告げにきたんだった。

 楽しく遊んでいる場合じゃないと……でも桂さんと過ごすのは楽しいと、心がまた重たく沈んでいく。どうしてこうもままならないものなのだろう。

 そのときふいに、私の鞄から明るいメロディが聞こえてきた。

 あの日、桂さんから電話がかかってきた時と同じデフォルトの音楽。私は桂さんに一言断り、急いで鞄からスマホを取り出す――

「わっ」

 と、私の手から釣れたての魚みたいに滑り出したスマホは、まるで狙いすましたように桂さんの膝の上へ着地した。私のスマホを手に取った桂さんの表情が、霜が降り注いだみたいにさあっと凍りついていく。

「あの、スマホ」

 落としてすみません、と言いかけた私の口を、桂さんの手が遮った。彼の視線はスマホへ向いたまま。食い入るように、吸い込まれるように、穴の開くほど鋭い眼差しで画面を見つめている。

「桂さん」

 会社からだったらどうしようと慌てる私の目の前に、ようやく着信元の名前が突き付けられる。

「これが……お前の恋人?」

 ――波留樹。

 私はそのとき、……理由はまったくわからないけど、自分の心臓が桂さんの手で握り潰されたような感覚を覚えた。今のこの桂さんの瞳は――返す返すも、理由の説明はできないのだけど――それだけの敵意と激情を燃やし、私を殺してしまうほどの勢いをもって、私と、その後ろに立つ樹くんの二人を射抜いたのだ。

「は、い」

 スマホはまだ震えている。

 早く電話に出てあげたいのに、桂さんはスマホを離す気配がない。

 やがて諦めてしまったのか、軽快な音楽と小刻みなバイブレーションは停止した。画面が暗転してようやく、桂さんは嘲るような笑みを浮かべてスマホをベッドへ放り投げる。わざと、私の座る方とは反対側へ。

 胸がざわめく。

 開けてはいけない心の扉が、重く軋み出した音がする。

「桂さん……」

「なに」

「それ……返してもらえませんか」

「いいよ」

 意外にも桂さんはあっさりとスマホを手に取ると、何食わぬ顔で私に向かって差し出した。若干拍子抜けした気持ちになりながら、私はおずおずと手を伸ばす。

 その瞬間、桂さんは私の手首を素早く掴むと、病人とは思えないほど強い力でぐいと引き寄せた。顔が一気に距離を縮めて、鼻先がぶつかる寸前で止まる。思わず息を止めた私を、嘲るように歪む唇。

「思い出した」

 桂さんは瞳の奥に強い力を込めて笑った。

「『サーレくん』は僕だ」
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