幸せでいるための秘密



 ――僕のフルネームは諏訪邉(すわべ)桂。

 まるで物語をなぞるように、桂さんは淡々と語る。幼い頃、父の仕事の都合でアメリカから新潟へ引っ越したこと。日本語がまったく喋れなくて、幼稚園に溶け込めなかったこと。日中はいつも人のいない公園で、ある女の子と遊んでいたこと。

 語るうちに記憶はどんどん鮮明になってきたようで、熱を帯びた声音のまま思い出話は長く続いた。名字しか名乗らなかったのは、当時の彼が(かつら)のツを上手く発音できなかったからだと。スワベをサーレと聞き違えるなんて子どもの聴力は当てにならないと。そう苦笑しながら語る姿は、不自然なほど明るく見えた。

 ――そう。お前は、

 どこか恍惚とした笑みを浮かべ、桂さんは私の指に触れる。

 ――僕《《が》》初恋だったんだね。

 私は、その手を……振り払いに行ったはずだったのに。

 結局思い出に流されるまま、気づけば私は言うべき言葉をすべて飲み込んであの病室を後にした。また必ず会いに来てねと、命令じみた強引さで私の手を握る桂さん。その手をどうすることもできずに、小さな肯首で応えた私は、あのとき何を思っていたのだろう。

(子どもの頃の初恋がなんだ。そんなの、ついこの間までまるっきり忘れてたことじゃないか)

 頭ではそうわかっているのに、心がなぜかもやもやする。初恋の人。そのラベルがあるかないかの違いだけで、人というのはこんなに違って見えるものなのだろうか。

 いや、きっと、それだけじゃない。

 私はきっと、桂さんのことを知りすぎた。友達として、あまりにも多くの時間を過ごしすぎた。

 寂しそうに微笑む桂さんを、放っておけないと思ってしまうほどに。

(これはよくない)

 子どもの頃のキラキラした思い出が桂さんの微笑とリンクする。いちごムースみたいに甘酸っぱい気持ちが心に誤作動を呼び起こす。

「どうかしたのか?」

 一向にページをめくろうとしない私の指先を訝しく思ったのだろう。ソファの隣に腰かけた樹くんが、私の顔を覗き込む。

 私は文庫本にしおりを挟むと、

「なんでもない」

 と言って、ローテーブルへ本を置いた。

 樹くんの視線から逃れるように目を閉じる。なんでもない。彼の口からこの言葉が出る度、私もひどく複雑な気持ちになっていたはずなのに。

(隠し事はお互い様かな)

 咎める気持ちはあるのだけれど、桂さんとの一連の出来事を樹くんに話したところで、私たちにいったいどんなメリットがあるだろう。

 樹くんはきっと嫌な気分になるだろうし、私だってまったく得をしないはずだ。だったらもう、お互いのために、秘密にしてしまう方がいい。

「樹くん」

「ん?」

 樹くんの膝の上へ、そっと手を置いてみる。

「今日、疲れてる?」

 言いながら恥ずかしさがこみ上げてきて、最終的にはほとんど声が消えてしまった。

 この言い回しは、私たちの間で決まった合図。今夜は触れても良いですか、をオブラートで包み込んだお誘い。

「疲れてない、けど」

 樹くんは少しはにかみ、私の顔をまじまじと見つめる。

「百合香からは珍しい。というか、初めてじゃないか?」

「そうかもね」

 確かめあうように指先が絡む。

 私の意思を確認するみたくじっと見つめてくる樹くんに、私は彼の瞳を見ながらゆっくり深く頷いてみせる。

 素直な笑みを浮かべてくれる樹くんがいとおしい。私は今、本当にこの人のことを好きだと思う。

 でも、心にはまだ、ちくちくとした痛みが残り続けていた。
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