幸せでいるための秘密
第十六章 夜凪
「嘘、ついたんですか?」
「うん?」
「『サーレくん』のこと。……だって、今の話だと」
公園で遊んでいた弟と、車の中からそれを見ていた兄。
これでは兄弟のうち、弟の方が『サーレくん』……私にあの山百合をくれた彼ということになる。
「そうだよ」
私の髪に頬をうずめながら、桂さんはあっさりと言う。
「ああでも言わないと、お前、僕のもとに通うのをやめるつもりだったでしょ」
「……気づいてたんですか?」
「まあね。お前を引き留めるためなら、僕だって嘘くらいつくよ」
でも、それ以外はすべて事実だからねと、桂さんは小さく笑う。すべて事実。口の中で言葉をゆっくり嚙み砕いても、喉やお腹がいっぱいいっぱいで何も飲み下せそうにない。
「私……行かないと」
「どこへ?」
「…………」
鼻先を私の耳元に押し当て、桂さんは小さくため息を吐く。
「まあいいよ。僕は樹や父とは違うからね。お前が外へ出たいと言うなら、どこへだって行かせてあげる」
桂さんが廊下へ声をかけると、少ししてから家政婦さんが小さな包みを持ってきた。風呂敷を広げ、真新しい靴とワンピースを取り出した桂さんは、私の身体にそれを押し当てて満足そうに微笑んでいる。
「帰ってきたくなったら連絡して。お前が来たら必ず通すよう、守衛にも言っておくからね」
桂さんの言葉に返事はせずに、私は与えられた服をそのまま着ると、重たい足を引きずるようにふらふらとその場を後にした。
半ば朦朧とした意識でも、家まではたどり着くことができた。
家、と自然と出てきた言葉に、また頭がこんがらがっていく。ここは樹くんの家。本当は私の家ではない。
(樹くんに会ったらどうしよう)
いったい何を話すつもりで、私はこの家へ帰ってきたのだろう。
また軟禁が始まったら? 今度は肌着まで隠されて、いよいよ二度と出してもらえなくなるかもしれない。
あるいはもっと激しい束縛が始まる可能性もある。それこそ、私の考えつかないような、危険なことだって。
でも、私の足は吸い込まれるようにいつものエレベーターに乗り込み、すっかり慣れきった足取りでいつもの部屋の前まで来た。
鍵が……開いている。
しんと静まり返った部屋。がらんとした玄関。ふと気づいて靴箱を開けると、私の靴がすべて綺麗に並べてしまわれていた。
樹くんの靴は、ない。
「樹くん」
返事がないのはわかりきっていたことだったけど、私は繰り返し名前を呼びながらリビングへ足を進めた。物音ひとつしない部屋の真ん中、ソファの前のローテーブルに、ファイルに綴じられた書類と一緒に小物がいくつか置いてある。
私のスマホだ。それにマンションの鍵。書類の方は、この部屋の入居にまつわるものらしい。
無意識に鍵を手に取ったとき、小さなメモがはらりと落ちた。
――今まで本当に悪かった。 樹
「うん?」
「『サーレくん』のこと。……だって、今の話だと」
公園で遊んでいた弟と、車の中からそれを見ていた兄。
これでは兄弟のうち、弟の方が『サーレくん』……私にあの山百合をくれた彼ということになる。
「そうだよ」
私の髪に頬をうずめながら、桂さんはあっさりと言う。
「ああでも言わないと、お前、僕のもとに通うのをやめるつもりだったでしょ」
「……気づいてたんですか?」
「まあね。お前を引き留めるためなら、僕だって嘘くらいつくよ」
でも、それ以外はすべて事実だからねと、桂さんは小さく笑う。すべて事実。口の中で言葉をゆっくり嚙み砕いても、喉やお腹がいっぱいいっぱいで何も飲み下せそうにない。
「私……行かないと」
「どこへ?」
「…………」
鼻先を私の耳元に押し当て、桂さんは小さくため息を吐く。
「まあいいよ。僕は樹や父とは違うからね。お前が外へ出たいと言うなら、どこへだって行かせてあげる」
桂さんが廊下へ声をかけると、少ししてから家政婦さんが小さな包みを持ってきた。風呂敷を広げ、真新しい靴とワンピースを取り出した桂さんは、私の身体にそれを押し当てて満足そうに微笑んでいる。
「帰ってきたくなったら連絡して。お前が来たら必ず通すよう、守衛にも言っておくからね」
桂さんの言葉に返事はせずに、私は与えられた服をそのまま着ると、重たい足を引きずるようにふらふらとその場を後にした。
半ば朦朧とした意識でも、家まではたどり着くことができた。
家、と自然と出てきた言葉に、また頭がこんがらがっていく。ここは樹くんの家。本当は私の家ではない。
(樹くんに会ったらどうしよう)
いったい何を話すつもりで、私はこの家へ帰ってきたのだろう。
また軟禁が始まったら? 今度は肌着まで隠されて、いよいよ二度と出してもらえなくなるかもしれない。
あるいはもっと激しい束縛が始まる可能性もある。それこそ、私の考えつかないような、危険なことだって。
でも、私の足は吸い込まれるようにいつものエレベーターに乗り込み、すっかり慣れきった足取りでいつもの部屋の前まで来た。
鍵が……開いている。
しんと静まり返った部屋。がらんとした玄関。ふと気づいて靴箱を開けると、私の靴がすべて綺麗に並べてしまわれていた。
樹くんの靴は、ない。
「樹くん」
返事がないのはわかりきっていたことだったけど、私は繰り返し名前を呼びながらリビングへ足を進めた。物音ひとつしない部屋の真ん中、ソファの前のローテーブルに、ファイルに綴じられた書類と一緒に小物がいくつか置いてある。
私のスマホだ。それにマンションの鍵。書類の方は、この部屋の入居にまつわるものらしい。
無意識に鍵を手に取ったとき、小さなメモがはらりと落ちた。
――今まで本当に悪かった。 樹