幸せでいるための秘密
仕方なく誘われるがままテーブルの傍に腰かける。いつも玄関口で花を買うばかりだったから、店内に入るのは初めてだ。あまり広くないお店の中では、あちらこちらに様々な花が、まるでジャングルか何かみたいに咲き乱れている。
少し青臭い草花の香り。ホースから流れるか細い水音。絶えず五感を刺激する環境は、今日に限って心地よい。余計なことが自然と頭に浮かぶのを防いでくれるから。
お茶を淹れるお花屋さんの背中をぼんやりと眺めていると、ふいに壁に掛けられた一枚の額縁が視界に入った。百合の写真……いや、絵かな? まるで本物のお花みたいに、とても色鮮やかで生き生きと描かれている。
「その絵が気になるの?」
私の前にお茶を出しながら、お花屋さんが笑顔で訊ねる。
「綺麗な絵ですね」
「ありがとう。私が自分で描いたものなの。息子が初恋の人からもらった、思い出の山百合でね。息子といっても、とっくの昔に成人しているのだけど」
わずかに息を吞み、顔を上げた私を見て、彼女は少しだけ恥ずかしそうに肩をすくめてみせた。
「私ね、バツイチなの。前の夫との間に子どもがいるのよ。……二人」
開かれたお店の玄関の外を、高校生の男の子たちが笑いながら通り過ぎていく。その姿を軽く目を細めて眺めつつ、お花屋さんの奥二重の瞳は彼方遠くへ向けられている。
「思い起こすと、大変な結婚生活だったなぁ。私は当時専業主婦どころか、家事も何もしなくていいと言われていてね。笑顔で生きてさえいてくれれば、俺はそれで充分だ、なんて。笑っちゃうでしょ? 気障すぎて」
「……愛されていたんですね、とても」
「そうね。でも、何もせずに食べさせてもらっている以上、私は彼に意見なんてできずにいた。彼は私を愛してくれたけど、あまりにも……重くてね。すれ違いにすれ違いを重ねて、結局私は息子と家を出たの」
緑茶の水面に俯く彼女の顔が映っている。
とても綺麗で、でも、少しくたびれた寂しい微笑み。
「離婚を決めたとき、彼は頼んでもないのに大変な額のお金をくれたの。私が生活に困らないようにって。別に、あの人が浮気をしただとか、そういう経緯の離婚じゃないのよ? なのにあの人、私を苦しめたのは事実だと言って、できることはなんでもする、なんて……」
そこで言葉を切り、彼女は小さくため息を吐いた。
「本当に……馬鹿な人だった」
焼けたアスファルトから湧き上がる空気がじわじわと気温を上げていく。
お店の前の交差点を横切ろうとした自転車が、前も見ずに駆け抜けた子どもにチリンと注意のベルを鳴らした。
「別れたこと、後悔してますか?」
静かに訊ねた私の目を見て、彼女は微笑むとかぶりを振った。
「それは全く。私たちには離婚以外の道はなかったと思う。私一人が我慢をすれば丸く収まったのかもしれないけれど、それでもきっと長続きはしなかったでしょう。私が彼のために苦しんだり、逆に彼を苦しませたり、傷つく必要のない存在を傷つけてしまったのは事実だからね。でも」
緑茶に触れた唇が、ふうと熱い吐息を漏らす。それから彼女は顔を上げて、くしゅっと気の抜けたように笑った。
「あの時もっとああしておけば、違う未来が待っていたのかしら……とは、思うかな。たとえば――」
少し青臭い草花の香り。ホースから流れるか細い水音。絶えず五感を刺激する環境は、今日に限って心地よい。余計なことが自然と頭に浮かぶのを防いでくれるから。
お茶を淹れるお花屋さんの背中をぼんやりと眺めていると、ふいに壁に掛けられた一枚の額縁が視界に入った。百合の写真……いや、絵かな? まるで本物のお花みたいに、とても色鮮やかで生き生きと描かれている。
「その絵が気になるの?」
私の前にお茶を出しながら、お花屋さんが笑顔で訊ねる。
「綺麗な絵ですね」
「ありがとう。私が自分で描いたものなの。息子が初恋の人からもらった、思い出の山百合でね。息子といっても、とっくの昔に成人しているのだけど」
わずかに息を吞み、顔を上げた私を見て、彼女は少しだけ恥ずかしそうに肩をすくめてみせた。
「私ね、バツイチなの。前の夫との間に子どもがいるのよ。……二人」
開かれたお店の玄関の外を、高校生の男の子たちが笑いながら通り過ぎていく。その姿を軽く目を細めて眺めつつ、お花屋さんの奥二重の瞳は彼方遠くへ向けられている。
「思い起こすと、大変な結婚生活だったなぁ。私は当時専業主婦どころか、家事も何もしなくていいと言われていてね。笑顔で生きてさえいてくれれば、俺はそれで充分だ、なんて。笑っちゃうでしょ? 気障すぎて」
「……愛されていたんですね、とても」
「そうね。でも、何もせずに食べさせてもらっている以上、私は彼に意見なんてできずにいた。彼は私を愛してくれたけど、あまりにも……重くてね。すれ違いにすれ違いを重ねて、結局私は息子と家を出たの」
緑茶の水面に俯く彼女の顔が映っている。
とても綺麗で、でも、少しくたびれた寂しい微笑み。
「離婚を決めたとき、彼は頼んでもないのに大変な額のお金をくれたの。私が生活に困らないようにって。別に、あの人が浮気をしただとか、そういう経緯の離婚じゃないのよ? なのにあの人、私を苦しめたのは事実だと言って、できることはなんでもする、なんて……」
そこで言葉を切り、彼女は小さくため息を吐いた。
「本当に……馬鹿な人だった」
焼けたアスファルトから湧き上がる空気がじわじわと気温を上げていく。
お店の前の交差点を横切ろうとした自転車が、前も見ずに駆け抜けた子どもにチリンと注意のベルを鳴らした。
「別れたこと、後悔してますか?」
静かに訊ねた私の目を見て、彼女は微笑むとかぶりを振った。
「それは全く。私たちには離婚以外の道はなかったと思う。私一人が我慢をすれば丸く収まったのかもしれないけれど、それでもきっと長続きはしなかったでしょう。私が彼のために苦しんだり、逆に彼を苦しませたり、傷つく必要のない存在を傷つけてしまったのは事実だからね。でも」
緑茶に触れた唇が、ふうと熱い吐息を漏らす。それから彼女は顔を上げて、くしゅっと気の抜けたように笑った。
「あの時もっとああしておけば、違う未来が待っていたのかしら……とは、思うかな。たとえば――」